【第258話】広島県三原市 三原駅~尾道市 - 最新ネタ

【第258話】広島県三原市 三原駅~尾道市

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【第258話】ふられる


広島2日目。先ずは恒例となった尾道散策から。


2日目。この日は1日尾道で過ごし、夕方から夜にかけて倉敷へ移動、倉敷美観地区にて夜景を撮影をしつつ帰りのリョービエクスプレスを待つをいう日程を組んだ。

というわけで……

三原駅

三原駅である。

♪ 見たか聞いたか 三原の城は 地から湧いたか 浮城か
月はまんまる金波に銀波 やっさ踊りに夜がふける
見たか 三原の胡蝶の踊り 風に桜の花が散る  ♪


この恐ろしくセンスが良く格好いい歌詞は毎年8月の第2日曜日を含む金・土・日の3日間に開催されるやっさ祭りの中のやっさ踊り唄である。

・やっさ踊りの由来
 永禄10年(1567年)、戦国時代の智将とうたわれた、毛利元就の三男小早川隆景が、瀬戸内の水軍を統率するために水、陸、交通の要地である備後の国三原の湾内に浮かぶ小島をつないで海城を築きました。
 やっさ踊りは、この築城完成を祝って老若男女を問わず、三味線、太鼓、笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われ、それ以来、大衆のなかに祝ごとは"やっさ"に始まり"やっさ"に終わる習わしになったと伝えられています。 
 また、その歌詞は、時代とともに移り変わり近郷の地唄、はやり唄なども大きく影響し、歌も身なりも変化し、踊り方も型にとらわれることなく、賑やかにはやしをとり入れて踊るようになり、はやしことばが「やっさ、やっさ」と声をかけられるところから、いつしかこの踊りを"やっさ踊り"と呼ぶようになりました。
全盛を極めた明治のはじめ頃は、子供が踊りの先頭で白シャツに白鉢巻姿で、日の丸扇子を両手にもって踊り、その後に各組の踊り子が続いたものです。また、当時の娘たちはみな三味線がひけたもので、毎年うら盆の3日間は町中を踊りまわり夜が明けるまで賑わっていました。
 近年やっさ踊りは、新聞、テレビ、ラジオ、CDやDVDで紹介されたり、昭和45年(1970年)の日本万国博覧会、米国建国二百年祭などに出演、また周辺市町村にもやっさ踊りが広まり、広島県の代表的民謡踊りになりつつあります。

・やっさ祭り
 三原のやっさ踊りを中心にしたお祭り行事は、花火大会を商工会議所、やっさ踊りを観光協会、夏祭り子どもやっさを商栄会と三団体がそれぞれに開催していました。昭和51年(1976年)このそれぞれ開催された行事の主催団体を一本化し、より盛大にしようと開催されたのが「やっさ祭り」です。
 設立趣旨は、「三原やっさ祭りを市民総参加で心の触れ合いの場づくりの行事とし、若者が運営の中心となり、市の一大観光資源として定着させたい…。」というもので、現在でもその文化は年々と受け継がれています。
運営については、運営母体が、各団体で構成する「三原やっさ祭り振興協議会」、運営主体は、若者で構成する「やっさ祭り実行委員会」となっています。
 やっさ祭りは、毎年8月の第2日曜日を含む金・土・日の3日間で開催され、中国地方を代表する夏祭りとして30数万人の人出で賑わいます。
 2日間のやっさ踊りでは、約8,000人の踊り手が、17時頃から三原駅前周辺の踊りコースを「やっさ、やっさ」と練り歩きます。
 また、花火大会は、20時~21時の1時間、沼田川河口で打上が行われます。中でも、1尺玉(10号玉)の打上げ迫力があり「ドォーン」という打上げ音は体の芯にまで響きます。

三原やっさ祭り|三原やっさ祭りの歴史と由来



決まった型がなく時代と共に変わっていく歌詞、現在はこうなっているらしい。

見たか聞いたか 三原の城は 地から涌いたか 浮き城か
月はまんまる 金波に銀波 やっさ踊りに 夜が更ける
西へ行こうか 東へ行こうか ここが思案の 開明橋よ


三原駅

ここが思案の始発駅、東へ行こうか尾道へ……。
因みにこの日の運用を後日追ってみるとどうやら一本前がD-26だったらしい。なんだっそら、耐えられない。
ふられた。1日おるし昨晩は遅かったから朝出るの遅くしてもええやろと慢心してしまったのが悪かった(苦)。

尾道駅

♪ 浄土西国千光寺 寺の名たかき尾道の
港を窓の下に見て 汽車の眠も覚めにけり ~♪


半年ぶりの尾道、最早こちらのほうが「おかえりなさい」の言葉が似合う場所になりつつある。
瑞風来駅に際して建て替えられる尾道駅。私にとって思い出のこの風景もあと何度見られるのか。
振り向いて廃城を見上げてみようとしても2階展望デッキからカメラを向ける観光客の姿が目に入ってきてしまうのはどこか空しさがある。

尚、工事に伴う仮駅舎(という名のプレハブ)建設工事が12月から始まったそうだ。駅東の芝生エリアに。

さて、先ずは土産を買う。
欲しい物は忘れる前・無くなる前に先に買っておいてロッカーに入れておくのだ。
尾道福屋でウエダのせんじ揚げ北前亭で各種ちりめん、尾道ええもんやでなんかもう色々買う。見聞録の鉄板3店。

序でに例のパスタ屋の黒板も見て行こう。去年はMAX153キロ右腕 ドラ1 岡田明文 1本釣り成功!だったが……

スローガン

普通すぎる(爆)。
さては応援に忙しくて変えてなかったな?

尾道市

尾道駅前まで戻ってきたので空いているベンチで荷物整理をする。
視線の先には備後商船のフェリー百風
終点の常石には尾道屈指のリゾートホテルベラビスタ尾道があるが値段が高いハイクラスホテルなのでとても手が出せない。

駅のロッカーに土産と散策に不要な着替え等を入れ、軽装備で尾道の散策を開始する。
今回は最初向島に渡り大元神社に行くつもりだったのだが、前日の竹原で足を酷使した上にこの日はあまり天気がよろしくないので「土堂で撮り忘れている物・補完したいもの」を中心に回って行くこととする。

尾道市

ゼエ……ゼエ……
しかしまあお前そんなに体力無くなったのかと問いたくなるぐらい疲れやすい。
その内体力を使うプランを避けるようになって「お前も地に堕ちたな、失望したぞ」と言われるようになってしまうかもしれない。
私は”体力を使った分だけ発見がある”という古い考えの持ち主なので、使える体力の上限が下がってくると必然的に満足ハードルも下がることになり結果的に旅のクオリティーが下がってしまう。これはいけない。

路地裏見聞録は本来、知多半島を歩いて一周したり、三河湾を酷暑に日帰り弾丸旅したり、最果ての温泉に意地でも入りに行ったり、そういうものでなければならない。
過程を無視して「このあたりは大したものはない」「新幹線は速く快適だなあ!」なんてことを言い出したら路地裏見聞録は見捨ててほしい。そんなものは有象無象のブログと何ら変わりはなく、バカをやらない路地裏見聞録は路地裏見聞録ではない。

尾道ガウディーハウス

階段の先には昭和8(1933)年に建てられた旧和泉家別邸、通称尾道ガウディハウス。
ガウディというのは
スペイン出身の建築家でサグラダ・ファミリア教会が代表作品。
そのサクラダ・ファミリア教会のように「いつ完成するか分からない」という意味合いも含めてガウディハウスという愛称が付けられている。
ただ、その意匠は現代の建築技術では再現不可能と言われており、それもある意味ガウディの名に相応しいと言えるかもしれない。
尚、そのいつ完成するかわからないサクラダ・ファミリア教会、ガウディの没後100年にあたる2026年に完成予定らしい。そのころガウディハウスはどうなっているのだろうか。貸別荘になるのならば一度泊まってみたい物件である。

・旧和泉家別邸(尾道ガウディハウス)
大正末期から昭和初期にかけて戦前の豊かな時代に、他の港町と同様尾道でもハイカラな洋風建築が流行りました。
鉄道開通後栄え始めていた尾道駅裏の斜面地には擬洋風建築の建物が今も多く残されており、旧和泉家別邸もそのひとつで、わずか10坪の狭い建物の中に当時流行った技法がところ狭しとちりばめられた洋館付き住宅となっています。
昭和8年に和泉家の別邸として一人の大工さんが3年かけて建てた建物ですが、跡継ぎ不足と老朽化で25年間空き家の状態で解体の危機にありました。
2007年より尾道の斜面地における空き家再生のシンボルとして、プロセスを共有しながら再生しています。
再生完了後は和の空間を生かした貸しスペースや短期滞在可能な貸家として活用し、尾道建築の生きた証しとして後世に繋げていきたいと考えています。

*通称ガウディハウスという名前は、以前よりそう呼ばれており、随所に見られる必要以上の装飾や日本建築にしては珍しい曲線の多様から来ていると考えられます。また現在ではスペインのサグラダファミリア教会のように「いつ完成するか分からない」という意味合いも含めての愛称となっています。

・建築的所見:一級建築士 渡邉 義孝
この住宅は、尾道市で箱物製作・販売を手がけていた和泉茂三郎氏が、 1932年(昭和8年)に離れ・別宅として建設したもの(棟札を確認)であり、その後1980年頃まで親族関係者の方の住まいとして利用され、 のち25年以上空家状態となっていたものである。
建物は木造2階建て(一部地下室あり)で和館部と洋館部からなる。
北西側に三角形に広がる和館部は桟瓦葺き、寄棟造りで、西側に庇を付け、北側の玄関上には数段に重なる飾り屋根を持つ。
間取りは1階が玄関・取次の他に六畳、家事室(二畳半大)、台所(三畳大)、廊下と大小便所からなり、2階は八畳座敷、二畳、廊下および外部に露台がある。
両階ともに西側に張り出しの窓台を備える。外壁は厚18ミリほどの杉板による南京下見板張りを基本とし深い陰影を持つ黒いマッシブな外観をつくりあげている。
また、鋭角に尖ったコーナーや少しずつ角度を変えて回る庇など極めて複雑な躯体および屋根形状が目を引く。
南側に矩形に伸びる洋館部はパラペット付きの陸屋根で、南と西に庇を廻す。東の石垣に寄り添うように架構され崖側の壁は傾いてつくられている。
2階の洋室は漆喰塗りで仕上げられ、執務室として使用されていた。外壁は着色したセメントを叩きつけたドイツ壁で、擬洋風建築らしい上げ下げ窓が採用されている。和館部分の状態は比較的良いが、石垣に密接し陸屋根でもあった洋館部は雨水の浸入による腐朽・破損が進んでいる。
意匠上の特徴は第一に地形に合わせた複雑な形状と南京下見板張りの力強い外観である。
明治から昭和初期にかけて普及した和洋折衷住宅の系譜としてドイツ壁と上げ下げ窓の擬洋風のデザインと、和風住宅の伝統を併置させる、当時の建築思潮を体現した貴重な建築といえる。第二に、良質な木材と手の込んだ造作に満ちていることである。
二階の八畳座敷の北側には床脇とつながる本床の床間があり、磨き丸太の床柱と狆潜り、筆返しと海老束を持つ違い棚が格式の高さを象徴している。
特に目を引くのは三角形かつ片側が湾曲した階段で、13段の段板はすべて形が異なり、アール形状の壁にはその曲面そのままの収納扉まで付いている。住人の記憶によれば「階段だけで2年をかけた(建築工事は3年)」という、特異な作品である。
他にも張り出し窓台の勾欄親柱の面取りや、平書院の変り組みの組子障子、欄間の彫刻や組子障子、丸窓などに丁寧な細工を見ることが出来る。第三に、土間台所につくられたタイル張り竃(かまど)や防空壕を兼ねた地下室など昭和初期の生活スタイルを今に伝えているということである。
これは、この家が浴室も本格的な台所もない別邸であり、日用の利便性を優先されることもなく、水回りリフォームなどの経験を経ていないという事情によるものである。
また、当建物には建設時の「建材買求帳」が現存し、四国の山林購入や大阪のタイルの仕入れ記録等も残っている。建築生産システムのデータとしても貴重なものといえよう。
総じて旧和泉家別宅は、近代和風建築がその技術の最高潮を迎えていた昭和初期の造形の規範となる遺構であるとともに、その立地と眺望において坂の町尾道を代表する歴史的景観のひとつとなっている。
そして随所に、現代の建築技術をもってしては再現が不可能、あるいは困難な意匠を持つ貴重な和洋折衷建築というべきである。

NPO法人尾道空き家再生プロジェクト



尾道市

かみちゅ!的に言うと、のれんまたぎ生息地。放送から11年経つのに全く変わりないのが感動モノである。

尾道市

海側に新しいコンクリビルが並ぶ一方、山側は古い建物が多く残り一部は自然に還ろうとまでしている。

尾道市

人間が勝手に作り上げた人工物を「自然に還る」という言い方で表すのは不適当かもしれない。
ならば何と言えばいいのか?呑みこまれるだろうか。

尾道市

自然は強い。人間が手を抜けばあっと言う間に勢力を拡大してくる。
自然側から見れば憎き人間の環境破壊を必死で修復しているだけなのだろうが。

尾道市

5年半前に撮った廃墟は相変わらず廃墟のままだった。

尾道市

こちらは既に廃墟。大量のペットボトルが転がっているが……

尾道市

元々旅館だったらしい……

趣味柄、行く先々でシャッター街や廃墟を目にするが、それはイコール栄えていた時代があったということである。
戦争から立ちあがり、昭和のバブルで湧いた日本。そこには人の生活があり金があった。
一方で東国にヒトやモノを集中させ政府は東に帝国を築いていった。
若者はメディアの印象操作にまんまと引っ掛かり祖国を捨て東国へ下って行く。夢を掴むためなのか何なのか知らんが。
その結果が現在である。
人と金を吸い上げ疲弊させ地方は過疎化高齢化が進み、一方の東京は不況により全国最低の出生率という体たらく。
藩のため、祖国のために散っていった武士が泣いている。

今こそ昔に戻り、それこそローリング☆ガールズのように各県境に関所を作り、大袈裟なぐらいにローカル色を出した国造りをするべきなのである。
よくメディアで言われる「魅力がない」というのはメディアが作り出した偏向報道「それはお前が興味を持とうとしないだけで素晴らしいものが沢山ある」というものであると日々思っているが、敢えてその「魅力がない」という言葉に乗るとすれば、それこそ国を出た裏切り者を後悔させるぐらいに地域色を出した県を作ってやればいい。アンテナショップだなんて程度の低いものには到底真似できないようなトンデモないものを作ればいい。ネットで見ただけでは満足できない、本当の街づくりをみせてやればいい。それを自治体ながらやってのけたのが竹原であり大洗なのである。

尾道市

「お前は廃墟一つでそこまで熱くなるのか?面倒くさいやつだな」
今更である。佐久間で小和田について熱弁した時点で察してほしい。

117系

227系が来る前に練習。来たのは117 E09。
カメラは尾関山の一件以来半壊のまま使っているので(爆)、14-30mmで勝負しなければならない。
ただ、頭がブレとるわケツが切れとるわでそれ以前の問題なのではないか。

115系

ブオン!
相変わらずトンデモない撮影スポットである。

227系

227系A36。これから車両が国鉄車から227に移り変わっていく中で、岡山地区の新車も227の塗装変更車で出すのか、全ての車両を三原・糸崎で区切ることで末長く国鉄車が尾道を走ることになるのかまだよくわからないが、今尾道でこの227を重要視しているのは「現在の尾道では227は希少種」という理由だからである。
227が幅を利かせれば態々時間を合わせて227を撮ることもなくなるだろう。

それにしても3両は撮りやすくていい。一方で一番難しいのは1両、次いで12両だと思う。

115系

227が福山から帰ってくるまでが撮影タイム。
その間に来た115系L22。白帯方向幕が何とも國鐡廣島。

115系

115系D20 ふるさとおこし3号。
現在(2017/03/11)は既に運転終了しておりラッピングが解除されている。

227系

帰ってきた227系A36。
今回はD26はカスりもしなかった。どうやら見事にふられたようである(苦)。
まだ撮影機会があるとはいえ、この時既に「今日はもう会えない」という気がしていた。流石に何度もやっていると変な勘が働くものだ。
「ワシの最後のD26は4月のアレか」と近づく検査で末期色にされることを嘆きつつしみじみと思っていたらあの結果になったので、今思えば無駄に寂寞感に浸っとったなあ……と思う(爆)。
思いはちゃんと伝えないといけないとしみじみ感じた。

さて、こいつが戻ってきたということは時間は1310。
そろそろ飯にしなければならない。

「また朱華園すか?並んでまっせ?」

フッフッフ……

雑兵

ここじゃ~~~~!!!!!


次回に続く!

No.258ふられる
場 所広島県三原市 三原駅~尾道市
日 時2016/10/31
備 考おのなび|広島県尾道市(しまなみ)の観光情報
引 用ぱすてる(1)
ぱすてる(1)
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