【第50話】愛知県犬山市 明治村5丁目 - 愛知

【第50話】愛知県犬山市 明治村5丁目

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【第50話】ALWAYS 五丁目の文化財
区切りの50話目は明治村編最終回。果たして時間は間に合ったのか?


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最後は5丁目。時間が殆どなかったが最後にして漸く全ての建物の写真を収めることができたらしい。
それにしてもこの5丁目、中央に監獄を持ってくるセンスがすごい。

聖ザビエル天主堂

51.聖ザビエル天主堂
旧所在地 京都市中京区河原町三條
建設年代 明治23年(1890)


この白亜の教会堂は、近世初頭日本に渡来しキリスト教の伝道に努めた聖フランシスコ・ザビエルを記念して、明治23年(1890)かつてザビエルがいたことのある京都の地に献堂されたカトリックの教会堂で、フランス人神父の監督の下に、本国から取寄せた設計原案に基づき、日本人の手で造られたものである。

基本構造はレンガ造と木造との併用で、外周の壁をレンガ造で築き、丸い高窓の並ぶクリアストーリーの壁を木骨竹小舞の大壁構造にし、内部の柱や小屋組等を木造で組み上げており、内外の壁は漆喰を塗って仕上げている。正面入口の上には直径3.6mを超える大きな薔薇窓が付けられ、切妻の頂点には十字架が掲げられている。
壁の出隅にはそれぞれ二方向のバットレスが付けられ、その上にピナクルが屹立する。
当初は壁や窓のモールディング等はゴシック様式の異形レンガの積み込みにより作られていたが、移築に際し、建物強化のために躯体を鉄筋コンクリートに変更するのに合わせて、モールディングの部分もプレキャストコンクリートに変更するのに合わせて、モールディングの部分もプレキャストコンクリートに置き換えている。

聖ザビエル天主堂
▲明治村の中で1位2位を争う人気の建物である。Fate/ZeroのOPにも出てくる。

身廊、側廊からなる三廊式で、前に玄関を張り出し、内陣の横には聖具室を配置している。
大アーケード、トリフォリウム、丸窓のあるクリアストーリーの三層からなる典型的なゴシック様式で、身廊上部には交差リブヴォールトが架けられ、その頂点には木彫のボスが飾られている。
身廊の両側に並ぶ柱は、軒まで達する太い角柱に幾本もの細い丸柱を付けた束ね柱になっているが、この柱やリブ等、天井板を除く全ての木造部分は欅で作られ、落着いた光沢を放っている。 外光を通して美しい陰影を見せるステンドグラスは、色ガラスに模様を描いたもので、外に透明ガラスを重ねて保護されている。

金沢監獄正門

52.金沢監獄正門
旧所在地 石川県金沢市小立野
建設年代 明治40年(1907)


明治5年(1872)「監獄則並図式」が公布される。
これは近代的な監獄制度と、それに合った洋式の放射型監獄舎房の規範を示したものであった。この方針に沿って新監獄の建設が始まり、明治12年(1879)先ず六方放射型の宮城集治監が建設され、その後各地で建設が進んだ。
金沢監獄が造られたのは明治40年(1907)のことである。
南北250m、東西190mの敷地はレンガ造の高い塀で囲われ、唯一西面に開けられていたのがこの門であった。

レンガ造に石の帯状装飾を入れるのは当時の洋風建築の流行で、明治村の正門として使われている旧第八高等学校正門と比較してみるのも面白い。
西洋の城郭の門にも似て、左右に二階建の看視塔を建て、中央にアーチ型の主出入口、両側に脇出入口を備えている。
看視塔への出入口を門の内側にしか設けず、窓も小さくして鉄格子を入れていること等、閉鎖的でいかめしい感じを与えるものの、実に美しい門である。

天童眼鏡橋
▲右の灯台が小那沙美島燈台である。

53.小那沙美島燈台
旧所在地 広島県佐伯郡沖美町
建設年代 明治37年(1904)


小那沙美島燈台は、広島湾から瀬戸内海への出口、宮島の脇の小さな島である小那沙美島に明治37年(1904)建造された。

広島には明治6年(1873)に鎮台が置かれ、同19年(1886)には第五師団指令部が配備された。
更に同21年東京築地にあった海軍兵学校が江田島に移され、続いて呉に鎮守府が開設される等、広島湾沿岸は軍事上、産業上の要所として重きをなしていた。
日清戦争の際には広島に大本営が移され、広島の外港宇品から物資の輸送が行なわれており、日露戦争の際にも運輸本部が広島に置かれている。
この燈台が造られたのは、その日露戦争の開戦前後で、わずか3ヶ月という短い期間で建造されている。
工期を短縮する目的と、急傾斜の山に造る上での便宜から、鋳鉄造の組み立て式燈台になっている。
4段の円筒形燈柱に燈篭と天蓋が載せられており、高さは7m足らずである。
光源にはアセチレンガスを用い、光度は60燭光、光の届く距離は約10kmであった。

明治村5丁目
▲左側の石造りの橋が天童眼鏡橋。中央の鉄骨が隅田川新大橋である。

54.天童眼鏡橋
旧所在地 山形県天童市天童から老野森
建設年代 明治20年(1887)


この石造アーチ橋は明治20年(1887)将棋の駒で有名な山形県の天童に、それまであった木橋に替えて架けられたもので、「多嘉橋」と呼ばれた。
幅7.7m、長さ13.3m、拱矢比(アーチ径間と高さの比)2.6のゆったりとしたアーチ橋で、地元の山寺石を積んで造られている。

アーチ構造の歴史は古く、紀元前4000年のチグリス・ユーフラテス地方にその原形を見ることができる。
時代が下がって古代ローマに伝えられ、ローマ建築の基本構造に発展した。
その構造は橋にも使われており、有名な水道橋に見られるように、築造技術は既に頂点に達していた。
日本でのアーチ橋の初期の実例としては、江戸初期に造られた長崎の眼鏡橋があげられる。
技術的には中国からの伝来と考えられ、そののち九州に多く架けられていったが、明治に入ると、欧米からの技術も加えられ、各地で架けられるようになった。
日本の場合、欄干の組み立てなどには木造の技術も応用され、親柱に手摺を差し込むなどの構法がなされている。

・アーチ

石造でもレンガ造でも同じであるが、アーチは「迫持ち」という原理によって成り立っている。
くさび型の材料を円弧上に積み上げ、個々のくさび型の部材がその重量で中心へ落ち込もうとすることにより、隣り合う部材同士がきつく密着して、全体として形を保つ。
その構造上、アーチを作る材料は十分に強固な材料でなければならず、かつ上部の重量も十分にあることが必要である。
東京御茶の水の聖橋などは、アーチの応用例で、アーチの部分を厚い鉄筋コンクリート造とし、上部の重量が重くなりすぎないように束を立てて道路面の重量だけをアーチに伝えている。

55.隅田川新大橋
旧所在地 東京都中央区浜町から江東区深川新大橋
建設年代 明治45年(1912)


日本の鉄橋の中で、古く有名なものとしては、鉄道橋では明治10年(1877)東海道線六郷川に架けられた六郷川鉄橋、道路橋では旧京橋区楓川の弾正橋(明治11年架橋、重要文化財)、そして隅田川に架けられた五大橋があげられる。
五大橋とは、上流から順に吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋のことで、明治の五大橋と言われ、デザインはそれぞれに異なっていた。

新大橋は、明治45年五大橋の最後の橋として日本橋浜町と深川安宅町の間に架けられた。設計監理には東京市の技術陣が当たったが、鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われている。
これは、明治の末においても未だ我が国の鉄材の生産量が乏しかったためと考えられる。
竣工後間もなく、橋を渡って市電が開通し、橋の役目は一層高まるが、大正12年の関東大震災の折には、他の鉄橋が落ちる中で、この新大橋だけが残り、避難の道として多数の人命を救った。

全長180m、途中に2箇所の橋脚が立つ三径間の橋で、形式はプラットトラス型という。中央に車道を通し、両側には歩道を張り出している。路面は厚い鉄板の上にコンクリートを打ち、仕上げにアスファルト板を敷いていた。明治村に移築されているのは、日本橋側の一径間の半分、25m分である。
力感あふれるトラスと対照的に、まわりには繊細な装飾が見られる。歩道の高欄もその一例で、細かい鉄材を組み合わせたデザインは曲線を多用したアールヌーボー風で、かたい橋の印象を柔らかなものにしている。
また、橋の両たもとに置かれた白い花崗岩製の袖高欄と親柱は、線で構成された橋に対し、程良いアクセントとなっている。

大明寺聖パウロ教会堂

56.大明寺聖パウロ教会堂
旧所在地 長崎県西彼杵郡伊王島
建設年代 明治12年(1879)


キリスト教は天文18年(1549)、宣教師フランシスコ・ザビエルによって伝えられたが、その後、豊臣秀吉、次いで徳川家康の政権時に禁制となり、実に二百数十年を経た、明治6年(1873)に禁教が解かれた。
この建物は明治12年(1879)頃、長崎湾の伊王島に創建された教会堂である。
開国後、長崎の町に建てられた最初の教会は大浦天主堂(1865年完成)で、それから15年後のことであった。
大明寺教会堂は、フランス人宣教師ブレル神父の指導のもと、地元伊王島に住んでいた大渡伊勢吉によって建てられた。
若い頃、大浦天主堂の建設にも携わった伊勢吉は、当時の知識をこの教会堂に注ぎ込んだのである。
内部こそゴシック様式だが、外観は、鐘楼を除けば、普通の農家の姿に過ぎず、いまだキリスト教禁制の影響を色濃く残している。
教会堂内部は、一般的には中央身廊と左右側廊からなる三廊式である。

明治村の聖ザビエル天主堂などの典型的なゴシック様式の教会堂では、列柱は大きなアーチでつながれ、大アーケードと呼ばれるが、この大明寺教会堂では一本おきに柱頭飾りから下の柱を取り払った姿になっている。
連なる小さなアーチのそれぞれに柱を建てると堂内が大変窮屈になってしまうためで、木造だからできた離れ業といったところだろう。
正面の土間や鐘楼は、創建後の増築である。このような地方の教会は創建の時に全てが完成しているものではなく、時代を経て少しづつ人々の手が加えられたのである。

大明寺聖パウロ教会堂

「コウモリ天井」とは、建築用語で「交差リブヴォールト」と言い、西洋のゴシック様式の教会建築によく見られる。
柱の間に渡されたアーチ型のリブを骨として天井を支えている。この教会では木製のリブを骨として、竹小舞を球形の鳥籠のように編み上げ、両面に荒土、漆喰を塗り重ねてある。
ちなみに「コウモリ」とは、骨の姿がコウモリ傘に似ているからである。
また左右の側廊の天井は、日本風の「竿縁天井」を少し曲げて曲面にし、西洋のヴォールト天井に似せたものと思われる。

1858年、フランス、ピレネー山麓の町ルルドのとある洞窟で聖母マリアが出現するという奇跡が起こった。
それにあやかって世界各地の教会で「洞窟」の再現が行われた。それが、「ルルドの洞窟」である。
通常、「ルルドの洞窟」を設ける時には、教会敷地の一部に岩山を作り、洞窟を掘るのであるが、この大明寺教会堂では室内に設けられており、それだけに、日本でも珍しい教会堂として数えられる。
押入れのような凹みに小さな鳥籠状の竹小舞を編み上げ、岩の様に泥を塗りつけて仕上げてある。

川崎銀行本店

57.川崎銀行本店
旧所在地 東京都中央区日本橋
建設年代 昭和2年(1927)


川崎銀行本店は、ルネッサンス様式を基調としており、当時の銀行・会社の本店建築の中でも本格的銀行建築である。
構造は鉄筋コンクリート(一部鉄骨)造、外壁は御影石積で地上3階、地下1階建、間口約38メートル、高さ約20メートルの建築であった。
関東大震災以前の大正10年に起工され、6年間の工期を費やして昭和2年に竣工した。設計者の矢部又吉は、ドイツのベルリン工科大学に学び、帰国後多くの銀行建築を設計したが、この建物はその代表作といえる。

川崎銀行は、江戸時代、水戸藩の勘定方をつとめた川崎八右衛門翁が明治13年に設立した銀行で、明治中頃には有力銀行の一つに数えられた。
その後昭和2年川崎第百銀行、昭和11年第百銀行と改称ののち昭和18年三菱銀行と合併した。
一方、川崎財閥の信託部門として設立された川崎信託株式会社が昭和11年からこの建物を共同使用していたが、同社はその後日本信託銀行と改称、昭和28年から同建物を全館使用するところとなった。

東京の中心地、日本橋のシンボルとして永く人々に親しまれてきたこの建物は、昭和61年ビル立て替えのため惜しくも取り壊され、正面左側角の外壁部分が明治村へ移築された。
日本橋に建て替えられた新ビルは、旧建物の中央玄関部分や柱のキャピタル部分などを保存再利用し、旧建物の面影を活かしたポストモダーンのデザインとなっている。 あわせて参考にすべきであろう。

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▲写真赤○が皇居正門石橋飾電燈(強引)。

58.皇居正門石橋飾電燈
旧所在地 東京都千代田区千代田
設置年代 明治26年(1893)


皇居正門の「石橋」は皇居前広場から皇居に通じる橋である。
江戸時代からこの場所には「西の丸大手橋」と呼ばれる木橋が架けられていた。
明治宮殿造営に際して二重橋の鉄橋も木橋から架け替えられたが、この「石橋」も木橋に替わり架けられた。
橋体の設計は当時皇居御造営事務局の技手であった久米民之助、欄干の装飾は同じく河合浩蔵であった。

橋は、明治19年3月に起工され明治20年12月に竣工した。
岡山産大島花崗岩造りで、橋の渡り35.3m、幅12.8mで、橋脚は橋を均整の取れた形とするため、円弧のアーチを二つ並べた眼鏡橋の形に設計されている。
この橋は、昭和23年から行われている一般参賀に開放されるが、それまでは、天皇、皇后、皇族、あるいは外国の貴賓と大公使に限って通行できた。

橋の両側に高さ114cmの石の手すりがありその間に高さ174cmの男柱が片側3本ずつ計6本ある。
それぞれの男柱石の上に青銅鋳造飾電燈計6基が設置された。
皇居造営に伴い皇居内外に、この飾電燈を含めて900を超える電燈が設置された。
電燈ははじめガス燈にする予定であったが、ドイツ人技術者オーベンにより電燈の照明度と安全性が上申され、電燈を採用することとなり東京電燈会社によって建設された。

長年使われてきた6基の飾電燈は、昭和61年9月、鋳型を取って新しく鋳造されたものと交換され、取り外されたもののうち1基が明治村に払い下げられた。
明治村では男柱石を新材で製作しこれを台座としてその上に飾電燈を展示している。

内閣文庫

59.内閣文庫
旧所在地 東京都千代田区千代田
建設年代 明治44年(1911)


内閣文庫は、明治6年(1873)赤坂離宮内に太政官文庫という名で開設された明治政府の中央図書館である。
明治23年(1890)内閣制度の制定とともに内閣文庫と改称され、昭和46年国立公文書館が設立されるまで、内外の古文書研究家に広く利用された。
その蔵書は、紅葉山文庫本、昌平坂学問所本をはじめ和漢書籍、記録など旧徳川幕府ゆかりの書籍を中心とし、さらに明治政府が集めた古文書・洋書を加えて、我が国の中世から近代までの文化、中国の明、清代の文化に関する貴重な内容である。

この建物は明治44年、皇居大手門内に新築された内閣文庫庁舎のうちの本館・事務棟である。
本格的なルネッサンス様式のデザインで、明治のレンガ・石造建築の教科書的作品である。
特に正面中央には高さ7m余の4本の円柱と2本の隅角柱が並び、巨大なぺディメントを受け、その姿は古代ギリシャ・ローマの新殿建築を思わせる。

東京駅警備巡査派出所

60.東京駅警備巡査派出所
旧所在地 東京都千代田区丸の内
建設年代 大正3年(1914)頃


明治41年(1908)、それまで品川を起点としていた東海道線を皇居正面の丸の内まで延長し、新しい中央停車場を建設する工事が開始された。
その大工事は大正3年(1914)竣工、東京駅と命名され開業したが、その折駅前広場を整備する中で、この派出所が建設された。

駅本屋との調和をはかるため、駅本屋のデザインを十二分に意識した設計がなされている。
隅切り八角形の外形で、その屋上に小塔を置き、正面軒上に半円のぺディメントを、窓上には小庇を設け、腰壁に白い帯状装飾を廻らしている。
構造は鉄筋コンクリート造で、化粧レンガを張って仕上げている。
レンガ積ではなく鉄筋コンクリートの躯体に化粧レンガを張る工法は、当時日本で行われはじめた新しい工法であった。
首府東京の表玄関であった東京駅では、天皇の地方巡幸や外国使節の従来など重要行事が多く、一時は12人もの巡査が詰めていたという。

大正3年に完成した東京駅本屋は、日本建築界の第一人者、辰野金吾の設計になり、鉄骨レンガ造三階建、床を鉄筋コンクリートで造った長さ330m余の壮大な建物である。
当初の計画では当時新工法として注目をあびていた鉄筋コンクリート造で全てを造ることも考えられたが、最終的には辰野博士が得意とするレンガ造で建設することに決したと言う。

中央入口の屋根には寄棟屋根をあげ、南北出入口の上には八角ドームを頂いて、それぞれの正面軒に半円形ぺディメントを飾った。レンガの壁面に石の帯状装飾などを入れる手法は、設計者辰野の独壇場であった。
関東大震災の折には被害をまぬがれたものの、第二次大戦の東京空襲により、厚い壁体を残して甚大な被害を受け、戦後の復興に当たっては破壊の甚しい三階を除去して二階建とされ、今見るような姿となった。

前橋監獄雑居房

61.前橋監獄雑居房
旧所在地 群馬県前橋市南町
建設年代 明治21年(1888)


「監獄則並図式」(1872)に沿って、前橋監獄でも十字放射型配置の舎房が造られた。
しかし、構造は和洋折衷の面白いもので、洋小屋に越屋根を載せているが、房廻りの構造は江戸時代以来の日本の牢屋の形式をそのまま伝えている。太く堅い栗材を密に建て並べ、貫を通して鳥籠状に囲い、床や天井も堅固に組まれている。

前橋監獄雑居房

飲食から排便に至るまで同じ狭い房内で行われるため、とかく不衛生になりがちな監獄であるが、ここでは房廻り、廊下とも全て吹きさらしになっているため、風通しが大変良く、その面での心配は少ない。
移築に当たり、左右合わせて21房あったものを切り縮め、9房と洗い場を復原している。
素通しの房廻りとは言え、入口の周囲には板がはめ込まれ、中からは錠に手が届かないようになっている。その反面、扉には小さな窓が開けられ、扉の背後に隠れることを防ぐための配慮もなされている。

・小屋組

この建物の小屋組は、越屋根の構造も組み込んだ特殊な洋小屋組になっており、斜めの方杖を利用して大屋根、越屋根の重量を廊下両側の壁に伝えている。
和小屋は屋根の重量を一本の梁材に持たせる方法で、大スパンになると梁も太いものが必要になる。これに対し洋小屋の場合、屋根面の斜め材及び方杖の利用により、水平の梁材には両端に引かれる力が働く。このため大スパンになっても梁をそれ程太くする必要はなく、鉄道寮新橋工場の小屋組等がその好例である。

金沢監獄中央看守所・監房

62.金沢監獄中央看守所・監房
旧所在地 石川県金沢市小立野
建設年代 明治40年(1907)


金沢監獄では、広い敷地の北半分が管理のための建物群で占められ、南半分に舎房が置かれた。
ここでも洋式舎房が採用されており、八角形の中央看守所を中心に、左右及び正面奥と左右斜め奥に五つの舎房が放射状に配され、右の舎房から順に第一、第二...第五舎房と名付けられた。
移築復原に当たっては、先の正門と中央看守所、第五舎房の一部だけが遺されたが、当時の洋式監獄の形を十分にうかがうことができる。

木造桟瓦葺で外壁に洋風下見板を張り、中央看守所の窓には上ゲ下ゲ硝子戸を建て込んでいる。
外見上は普通の西洋館の外壁と変わらないが、実は三重壁になっており、内外が厳重に区切られている。
建築技法だけに限って考えると、近代の防音、断熱の先駆的な実例とも言える。
看守所上部の見張り櫓へは小屋裏を抜けて昇るようになっており、その高さは地上高12mに達する。

広い廊下の左右に独居房の重い扉が整然と並ぶ第五舎房の内部。扉の上には換気用の小窓が開けられ、衛生面に留意したことがうかがわれる。
小屋組も合理的に設計されており、大梁の廊下部分は鉄筋に置き換えて組まれている。長い廊下の見通しを良くするための配慮であろう。

差渡し14mの広い中央看守所の中央には看視室が置かれ、ここから各舎房の廊下が一目で見渡せるようになっている。
現在ここに置かれている看視室は金沢監獄のものではなく、網走監獄で使われていたものである。

金沢監獄中央看守所・監房
金沢監獄中央看守所・監房

やや東野幸治にも似た人形を使った食事と就寝準備の様子。
遠目で見ると人間がそのまま固まったかのような精巧さなので知立市図書館の歴史民俗資料館の人形の如く直視できない不気味さがある(爆)。

宮津裁判所法廷

63.宮津裁判所法廷
旧所在地 京都府宮津市本町
建設年代 明治19年(1886)


古来日本では裁判所を行政官庁から独立させる思想はなく、むしろ行政官庁が同時に裁判所でもあることが原則となっていたが、明治元年(1868)の政体書の中で、太政官の権力を立法・行政・司法の三権に分離し、司法権を掌る刑法官を設けたのを端緒として、司法権の独立へと向かうことになった。
明治4年(1871)司法省が置かれ、同8年最上級審として大審院が、翌9年には各地に4つの上等裁判所と23の地方裁判所が創設された。そののち幾度かの改編を重ねて整備が進み、明治23年(1890)の裁判所構成法により司法制度はその確立をみた。
制度の改良と時を同じくして法律も整備され、明治15年にはフランス法系の治罪法が定められ、同23年には治罪法を改正して刑事訴訟法が制定された。このような司法制度確立期の明治19年に宮津裁判所は建てられ、この法廷はその一部である。

控訴裁判所などの上級審が洋風レンガ造で造られたのに対し、和洋折衷の木造で建てられた。
立式を採用した法廷内部や、窓、出入口などに洋風の影響を見ることができるが、明治村の中の他の多くの和洋折衷建物がペンキ塗であるのに対し、この建物は素地のままであり、和風の意識が強いことを表している。
宮津裁判所全体の形は左右対称のH型で、中央に二階建の管理棟、左右両翼に法廷棟が配されていた。
管理棟には、玄関、応接所、正庁、会議室などがあり、法廷棟には法廷のほか予審廷、検事調所があった。明治村に移築されているのは、右翼の刑事法廷棟である。

宮津裁判所法廷

法廷を復元するに当たり、明治村では人形を用いて当時の法廷風景の再現を図った。
高い壇上に裁判官と検事、書記が座を占め、弁護士、被告人は下段に置かれている。
法廷への入口も分けられており、裁判官達は廊下づたいに、弁護士、被告人は外の廻廊から入るよう定められていた。

菊の世酒蔵

64.菊の世酒蔵
旧所在地 愛知県刈谷市銀座
建設年代 明治初年(1868)頃


この建物は、西洋館の多い明治村の中では珍しく和風瓦葺の蔵であって、梁間九間(約16m)桁行十八間(約33m)、外壁に厚い土壁を塗り廻した二階建部分と、幅二間(約3.6m)の吹き放ちの庇部分からなる。
明治28年(1895)愛知県の刈谷にあった菊廣瀬酒造の仕込み蔵として建てられたが、もとは明治の初め刈谷から程遠くない三河湾近くの新川(碧南市)に穀物蔵として造られたものを移したという。

明治村は、昭和44年(1969)この建物を解体保存していたが、十数年を経た昭和58年(1983)12月 に移築公開した。
移築に当たり、広い蔵の内部を明治村の収蔵庫兼展示場に利用するため、鉄筋コンクリートで新たに地下室を設けるとともに、内部構造の一部 を変更した。
南半分は旧来の蔵造として遺したが、北半分は鉄筋コンクリート造に置き換え、下見板を張り廻して外観の様式を整えた。
尚、蔵造部分の一階には、酒蔵に因んで、酒造りに関する多数の資料を展示しており、入口の杉玉もその一例である。

大屋根を支える小屋組は、古い民家の形式である。
梁間を三等分し、中央の部分を本屋、両側を下屋といい、本屋は背の高い二本の独立柱を立て大梁を架けて鳥居形とし、上に和小屋を組む。
下屋は外壁の側柱から登り梁を本屋桁に掛け渡している。

・酒造り

酒造りは、雪国や山村の農民、漁民ら出稼者で組織される「蔵人」にまかされる。
蔵人の引率者が「杜氏」、その補佐が「頭」と呼ばれる。
その下に、酒造りの大切な工程麹づくりの責任者「大師」(麹師などともいう)、醗酵のための酵母菌をふやす作業の責任者「廻り」が続く。
また、道具の管理、酒しぼり、蒸米など役割に応じて責任者が決められ、それら責任者の下に「上人・中人・下人」らの職人がいた。
この菊の世酒蔵内には、酒造りの道具が工程順に置かれ、当時の酒造りの様子が偲ばれる。

高田小熊写真館

65.高田小熊写真館
旧所在地 新潟県上越市本町
建設年代 明治41年(1908)頃


銀板写真と呼ばれる写真術が日本に渡来したのは幕末1840年代のことである。
続いて1850年代の末頃湿板写真が導入され、明治中期には乾板写真に移行し、さらに今日のフィルムへと変遷をとげた。
明治時代においては、写真術は高度な理化学の知識と長年月の修練を要し、誰にでも簡単にできるというものではなかった。
このため写真師は文明開化の花形職業として高い収入と大きな名声を得ていたのである。

この建物は、昔から豪雪地として知られ、日本のスキー発祥の地である越後高田の街なかに、明治41年(1908)頃建てられた洋風木造二階建の簡素な写真館である。
階下には応接間、暗室のほか作業室兼用の居室があり、二階に写場(スタジオ)が設けられていた。
創建以後、時世の変化に応じて増築や模様替えが重ねられていたため、移築に際しては創建時の姿に復原することに努め、背面及び内部の後補部分は取り去った。しかし、正面の突出部分は改造後の姿をそのまま復原した。
大工棟梁によって地方に建てられた明治末大正初期の写真館の俤が偲ばれる。

当時、写真師が写場を設営するにあたり最も苦労したのは、人工照明がないため、外光を写場にいかに効果的に取り入れるかであった。そのため屋根やカーテン、反射板等に様々な工夫が凝らされ、この写真館でも北側の屋根を全面ガラス張にし、独特の白黒天幕を用いて光景を調節できるようにしている。
又、写真師は写真館の外観とともに、「書割」と呼ばれるバックや小道具にも力を注ぎ、専門の絵師にバックを描かせたり、高価な舶来の小道具を購入する等、その豪華さを競い合った。

・明治の写真事情

明治初期の湿板写真は、ガラス板の上に乳剤を塗り、それが乾かないうちに写したため、この名がある。
写したガラス板のネガは黒いビロードにのせてポジ像に見せ、これを桐箱に入れて客に渡した。
撮影には長時間の露出を要するため、「首おさえ」や「胴おさえ」を使って体を固定した。

名鉄岩倉変電所

66.名鉄岩倉変電所
旧所在地 愛知県岩倉市下本町
建設年代 明治45年(1912)


明治20年(1887)に東京で日本最初の電気事業が開始された。
当初は需要の多い地域毎に火力発電所を設置し、低圧直流の電気を発電供給する方法であったが、小規模の発電所が市内各所に点在し、その技術的な統一が困難になってきたため、高圧交流式の大火力発電所が建設されるようになった。
これに伴い、それまでの小発電所は変電所に振り替えられていった。

電気事業の進展は電車という新しい交通機関を可能にした。
京都市電に遅れること3年、名古屋電気鉄道により明治31年(1898)日本で2番目の市内電車が名古屋市内に走るが、同社はその後も尾張地区に路線を伸ばし、大正元年(1912)には犬山線を開通させた。その時、この岩倉変電所が建てられた。
内部に高価で大きな変電用機械を入れるため、背の高いレンガ造建物になっており、屋根には天然スレートを葺いている。
出入口や竪長の大きな窓は半円アーチとし、色の濃い焼過ぎレンガを上下四段の帯として入れている。建物四隅にバットレス(控壁)を付けているが、この建物のように小屋組がトラスの場合はバットレスを付けないのが通例である。
移築に当たり、構造躯体を鉄筋コンクリートに改め、外装にはレンガタイルを張った。

岩倉発電所の背面は、他の三面と趣きを異にし、レンガ積の様々な手法で装飾を施している。
半円アーチ、円弧アーチ、柱型、凹みなど設計者の楽しみのあとがうかがわれる。

小屋組は木造キングポストトラスで、小屋裏あらわしになっている。しかし、建物活用の目的で、テント布を梁下に張っている。
竪長の窓には上ゲ下ゲの建具が建て込まれ、上部に半円形の欄間がつけられている。

帝国ホテル中央玄関

67.帝国ホテル中央玄関
旧所在地 東京都千代田区内幸町
建設年代 大正12年(1923)


この建物は、20世紀建築界の巨匠、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって設計され、大正12年(1923)4年間の大工事の後に完成した帝国ホテルの中央玄関部である。

皇居を正面にして建てられた帝国ホテルは総面積34,000㎡余の大建築で、中心軸上に玄関、大食堂、劇場などの公共部分が列ねられ、左右に客室棟が配されていた。
全体計画から個々の客室に到るまで、きわめて多様な秀れた空間構成がなされ、それまでの建築空間が主として平面的なつながりであったものを、立体的な構成へと発展させた世界的に重要な作品である。

iこの中央玄関は、建物の特色をよく遺しており、軒や手摺の白い大谷石の帯が水平線を強調し、またその帯が奥へ幾段にも重なって、内部空間の複雑さを予想させる。
大谷石には幾何学模様の彫刻を施し、レンガには櫛目を入れて、柔らかで華麗な外観を現出している。
レンガ型枠鉄筋コンクリート造とも言える構造であり、複雑な架構に鉄筋コンクリートの造形性が生かされた作品である。移
築に当たっては、風化の著しい大谷石に代えてプレキャストコンクリートなどの新建材も使った。

メインロビー中央には三階までの吹き抜きがある。
中央玄関内の全ての空間は、この吹き抜きの廻りに展開し、その個々の空間は、床の高さ、天井の高さがそれぞれに異なっており、大階段、左右の廻り階段を昇る毎に、劇的な視界が開かれる。
建物内外は、彫刻された大谷石、透しテラコッタによって様々に装飾されている。
特に左右ラウンジ前の大谷石の壁泉、吹き抜きの「光の籠柱」と大谷石の柱、食堂前の「孔雀の羽」と呼ばれる大谷石の大きなブラケットは、見る者を圧倒する。
吹き抜かれた大空間の中を光が上下左右に錯綜し、廻りの彫刻に微妙な陰影を与え、ロビーの雰囲気を盛りあげている。


帝国ホテル

御存知5丁目のシンボルであり明治村のシンボルである帝国ホテル。
玄関部分だけとはいえ、明治村最大の建物でありその風格は他の建物とは一線を画す。


斯くて何とか時間までに大半の建物を撮ることができた。
とは言え駆け足故歯抜けが多数な上に質も悪く、内容が全て頭に入ったかと言われると正直自信がない。
あれから4年も経ち、自分で言うのもアレだが撮影技術もちょっとはマシになりモノに対する考え方もかなり変わった。再訪の機は熟したと言える。

この明治村、ジャンル問わず古いものが好きな人は間違いなく行くべき場所であるが、そうでない人も近代日本史を学ぶためにはうってつけの施設なので日本国民であるなら一度は行っておくべき場所とも言えるだろう。

尚、名鉄バスセンターから直通バスが出ているほか、電車なら明治村 時間旅行きっぷがお得である。

No.050ALWAYS 四丁目の文化財
場 所愛知県犬山市 明治村5丁目
日 時2012/03/22晴/曇
備 考博物館明治村
引 用ALWAYS 三丁目の夕日\'64 Blu-ray豪華版
ALWAYS 三丁目の夕日\'64 Blu-ray豪華版

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