【第47話】愛知県犬山市 明治村2丁目 - 愛知

【第47話】愛知県犬山市 明治村2丁目

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【第47話】ALWAYS 二丁目の文化財
前回の続き。
時間との勝負故どんどん攻めて行く。


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続いて二丁目である。
ここでは撮り忘れた(爆)らしい23.京都七条巡査派出所以外を紹介していく。

明治村

2丁目はこのレンガ道に沿って展開している。
この一帯だけなので明治村の中で一番狭い。

千早赤坂小学校講堂

14.千早赤阪小学校講堂
旧所在地 大阪府南河内郡千早赤阪府
建設年代 明治30年(1897)頃


一階が雨天体操場、二階が講堂となっているこの建物は、もとは大阪市北区大工町の堀川尋常小学校にあったが、昭和4年(1929)同校の校舎が新築されるに際し、南河内郡千早赤阪村の小学校に移築されたものである。
木造二階建桟瓦葺寄棟造で、建物の四周に幅1間(約1.8m)の吹放ち(ふきはなち)の廻廊をめぐらせている。
二階の外壁は洋風下見坂で、出隅には柱型を付け、軒には蛇腹をまわしている。
壁面に整然と並べたれた堅長の窓には欄間と上ゲ下ゲガラス戸が入れられているが、その廻りには額縁をまわすとともに、上にはペディメントを飾り、窓台下にはブラケットを付けた古典的な姿になっている。一方、下屋に隠れた一階の壁は漆喰塗真壁で柱を表面に見せ、腰には竪羽目板を張っている。四方に開けられた出入口は全て引き違いの大きなガラス戸になっていて、欄間にも引き違いガラス戸を入れている。

明治中頃から学校教育の中で体操が重視されはじめ、明治後期には体育教育が盛んに行われるようになる。
体操の内容も亜鈴式からスウェーデン式へと変わり、広い体操場が求められるようになった。
なお、明治村への移築に際し、建物の高さが木造建築の法定限度を超えるため、建物四隅の壁体の中に鉄骨を埋め込んで、補強した。
一階の廻廊には、二間(3.6m)ごとに細い角柱が立てられ、柱間に浅いアーチ形の幕板を入れ、その中央にペンダント状の吊束を付けている。因みに、アーチが連続した廻廊をアーケードという。

・奉安殿(奉安庫)
奉安殿は第二次世界大戦後姿を消した学校付随施設で、天皇皇后両陛下のご真影と呼ばれる写真、教育勅語を写した勅語謄本が収められていた。
学校儀式の際には、学校長が奉安殿からご真影や勅語を運び出し、生徒はご真影への拝礼、教育勅語の拝聴が義務付けられていた。 この建物は2階の講堂に奉安殿が設けられていた。

※現在と創健時の建築法規が異なるため、千早赤阪小学校2階の公開は行っておりません。


千早赤阪小学校講堂

小学校の一階、雨天体操場は立体写真館になっていた。色味的にアンバランスな衝立である(爆)。

立体写真館
1900年前後の日本や世界の風景、生活、産業などをテーマごとに分けて立体写真で紹介しています。
明治村で展示している写真作品のほとんどはアメリカで製作され、欧米向けに販売されたものです。
通常の生活風習(挨拶の様子など)や日本古来の伝統的なもの(神社・仏閣など)、風光明媚な場所(安芸の宮島など)、生産風景(絹や茶など)など外国人が興味を持って見た当時の日本の様子が良く分かります。

もともと立体写真は今から百年前に世界的に大流行したもので、日本でも明治23年(1890)に東京で開催された内国勧業博覧会以降に大ブームとなり、上流階級の人々の間で愛好され、後に各地のみやげ物として大量に販売されるようになりました。
その後、技術の発達により衰退していきました。


第四高等学校物理科学教室

15.第四高等学校物理化学教室
旧所在地 石川県金沢市仙石町
建設年代 明治23年(1890)


明治19年(1886)に「中学校令」が公布され、東京大学予備門が第一高等中学校に、大阪の大学分校が第三高等中学校に改組された。
引き続き、翌年には仙台に第二、金沢に第四、熊本に第五高等中学校が設置され、明治27年(1894)の「高等学校令」により、いずれも高等学校に改称・改組された。
この物理化学教室は高等中学校時代の明治23年(1890)に創建され、以後、第四高等学校、金沢大学へと引き継がれてきた建物である。

近代化を推し進めようとする明治政府にとって自然科学教育は重要な課題で、明治5年(1872)公布された学制の「小学規則」の中にも窮理学(物理)、科学、博物、生理、の四科目があげられており、初等教育の段階から重きを置かれていた。
中等・高等教育においても、実験まで含めた自然科学教育が実施され、ここに見るような物理化学教室が建設された。
もとはH型の大規模な建物であったが、明治村では中央部分だけを移築・保存している。
木造桟瓦葺平家建であるが、階段教室の部分だけ一廻り大きくなっている。
外壁は南京下見(なんきんしたみ)と呼ばれる洋風の張り方で、竪長の窓には下に上ゲ下ゲ窓、欄間(らんま)に回転窓が入れられている。又、軒裏には小さな換気口が数多くあけられ、実験室のドラフト・チャンバーとともに室内換気に効果をあげている。

棟札によれば、この建物の工事監督は文部省技師山口半六、設計者は同じく文部省技師の久留正道である。
この二人はともに明治期の学校建築の功労者であるが、特に久留正道、西洋建築の理論や技術の研究を行い、「学校建築設計大要」等を著している。
この階段教室も、そういった理論の裏付けのもとに、段の勾配、天井の高さ、窓の位置・大きさ等が設計されている。
この建物の一室は明治村の創立をはじめ、各方面に業績を残した故谷口吉郎氏と故土川元夫氏の顕彰室とし、室内に氏の遺品等を展示している。

・谷口吉郎・土川元夫レリーフ(製作:菊池一雄)
明治村は、四高時代同級生であった東京工業大学教授で建築家の谷口吉郎と名古屋鉄道株式会社会長の土川元夫の発想と決意によって誕生した。


第四高等学校物理科学教室

廊下は現代の学校の廊下と比べるとやや狭いが、どことなく懐かしさを感じさせる。

第四高等学校物理科学教室

若干の恐怖と不安を覚える(爆)。

第四高等学校物理科学教室

階段教室。
てけテケが何処に座るか観察していたらなんと最前列に座った。コヤツ真面目か。

東山梨郡役所

16.東山梨郡役所(重要文化財)
旧所在地 山梨県山梨市日下部町
建設年代 明治18年(1885)


廃藩置県によって始められた地方行政をより効率的に行うため、明治11年(1878)「郡区町村編制法」が施行される。
これにより、県令の任命する郡長が、県令の指示のもとで郡内の町村の行政を指導監督することになった。
山梨県は施行当初4郡に分けられたが、明治13年(1880)の太政官布告により9郡に改編された。
東山梨郡が誕生したのはこの時で、日下部(くさかべ)村をはじめ30の村が編入された。

発足当初、仮庁舎を使って業務が開始されたが、明治18年(1885)新庁舎としてこの建物が日下部村に落成した。
当時の山梨県令藤村紫朗は大変開明的な人物で、地元に多くの洋風建築を建てさせている。人々はそれらを「藤村式」と呼んだが、この東山梨郡役所もその一例である。
正面側にベランダを廻らせ、中央棟と左右翼屋で構成する形式は、先の三重県庁舎と同様、内務省に代表される当時の官庁建築の特徴である。
この建物は地元の職人の手になるものであるが、木造桟瓦葺の外形に伝統技法を駆使して様々な洋風の意匠を施している。
ベランダの柱は凸面のひだをとった胡麻殻决り(ごまがらじゃくり)の丸柱として、洋風の束ね柱(たばねばしら)を模し、壁面の出隅には黒漆喰を用いて隅石積の形を塗り出している。
二階手摺の構成等には、純粋な洋風建築にはない面白さがある。室内では花鳥風月をあしらった天井の漆喰塗中心飾が特に美しい。

・屋根の形
この東山梨郡役所は中央部分が二階建、左右翼屋が平家建になっており、このため屋根が複雑に架けられている。
屋根を支える小屋組は、中央の大屋根部分が大スパンに適した洋小屋のキングポストトラス、翼屋の部分が和小屋になっている。
屋根の基本的な目的は雨露をしのぎ、強い日射を防ぐことにあるが、水はけの良さと外観の美しさを追求して、屋根の形は様々に発達した。

東山梨郡役所

レンガ道の終点、2丁目の最奥にある東山梨郡役所。間違いなくこの2丁目のシンボルである。風格も素晴らしい。

東山梨郡役所

なのに肝心の写真が階段周辺の写真しかないとは一体どういうことなのか?
時間制限の為急ぎ足で見学していたかもしれないがそれにしてもこれは酷い。当時の自分をぶん殴りたいものである。

清水医院

17.清水医院
旧所在地 長野県木曽郡大桑村
建設年代 明治30年(1897)代


江戸時代の五街道の一つ中山道は、近江草津で東海道と分かれ、大垣、岐阜を経て鵜沼から木曽川に沿って信濃へ抜け、さらに江戸へと通じていた。
木曽路の中程、妻篭と木曽福島の中間、須原の地にこの清水医院は建てられた。
建造の詳しい年月は明らかではないが、その様式から凡そ明治30年代(1897~1906)と推定される。
名古屋から須原まで鉄道が開通したのが明治42年(1909)であるので、当時はまだまだ交通の不便な時代であった。
因みに中央線が全通したのはその翌々年、明治44年(1911)のことである。

須原に生まれた清水半次郎は、東京に出て医学を学んだ後、地元の木曽谷に戻り医院を開業したが、この医院は旅篭の立ち並ぶ街道沿いでひときわ目立つものであった。
木曽檜の柿葺(こけらぶき)屋根をのせた土蔵造りであるが、表側の入口や窓をアーチ形に開けたり、白い壁に目地を切って石積みに見せたり、壁隅には柱型を付ける等、洋風のデザインが模されている。
しかし、アーチ形にした窓も、建具を「上ゲ下ゲ」や「開き」にせず、室内側での引き込みにしているところなどは面白い。


清水医院

この清水医院には島崎藤村の姉園子も入院しており、彼女をモデルにした藤村の小説「ある女の生涯」では、須原の蜂谷医院とされて当時の様子が記されている。
玄関を入ると通り土間に面して待合室と薬局があり、薬局には小さな投薬口が設けられている。
畳敷きの待合室に続いて板張りの診療室となるが、待合室の廻りの襖(ふすま)には様々な養生訓が黒々と大書されている。
二階は数奇屋風の造りの住居部分になっている。

・島崎藤村「ある女の生涯」より
(略)蜂谷の医院は中央線の須原駅に近いところにあった。おげんの住慣れた町とは四里ほどの距離にあった。
彼女が家を出る時の昂奮はその道のりを汽車で乗って来るまで続いていたし、この医院に着いてもまだ続いていた。
しかし日頃信頼する医者の許に一夜を送って、桑畑(くわばたけ)に続いた病室の庭の見える雨戸の間から、朝靄(あさもや)の中に鶏の声を聞きつけた時は、彼女もホッとした。
小山の家のある町に比べたら、いくらかでも彼女自身の生まれた村の方に近い静かな田舎に身を置き得たという心地もした。(略)


明治村

数字の順番に歩いているのでUターンし今度は反対側の見ていない建物(写真左手)へ。

東松家住宅

18.東松家住宅(重要文化財)
旧所在地 名古屋市中村区船入町
建設年代 明治34年(1901)頃


東松家住宅は名古屋の中心部堀川沿いにあった商家である。
東松家は明治20年代後半までは油屋を生業とし、その後昭和の初めまで堀川貯蓄銀行を営んでいた。

東松家住宅

塗屋造という江戸時代以来の伝統工法で建てられているこの建物は、創建以来、再三の増改築を経ている。
江戸末期、平屋であったものを、明治28年後方へ曳家(ひきや)の上、2階の前半部を増築して現在の店構えを完成させ、明治34年3階以上を増築したらしい。

江戸時代にはいかに富裕でも武家以外のものが三階建ての建物を造ることは許されず、慶応3年(1867)に なってはじめて京都、東京でこの禁令が解かれ、以後順次全国で認められるようになった。
しかし、大正8年に市街地建築物法により木造高層住宅が禁止されたので、3階建以上の木造住宅はわずか50年ほどの間しか造られなかった。
名古屋城から伊勢湾へと流れる運河堀川に面したこの商家は、間口が狭く奥行の深い典型的な町屋である。
2階には露地にみたてた廊下、待合、原叟床風の床框や墨蹟窓などを備えた茶室が設けられている。
又、正面の壁が三階まで直立していのは日本の建築になかったもので、ビル化する商店建築の先駆けと言えるものである。

東松家住宅

1階左側に裏まで抜ける通り土間を通し、右側にミセ、座敷などを連ねている。
通り土間の上を3階までの吹き抜けにし、高窓から明かりを入れているので、奥行きが深いにもかかわらず室内は予想外に明るい。
2階3階は住まいのための部分であるが、吹き抜けに面して茶室が設けられている。
茶室には露地にみたてた廊下、待合、原叟床風の床框や墨蹟窓などが備えられ、当時の商家の趣味の一端がしのばれる。


明治村
▲手前は安田銀行会津支店。その隣が京都中井酒造

19.京都中井酒造
旧所在地 京都市中京区御幸通二条
建設年代 明治3年(1870)


中井家は、江戸時代の天明7年(1787)京都河原町二条で商売を始めた。
その後享和3年(1803)やや西の御幸通りで酒屋を開業したが、元治元年(1864)長州藩と会津・薩摩両藩京都御所蛤御門(はまぐりごもん)付近で衝突した事件(禁門の変)で焼失、その後、この建物が再建された。

京都御所の南方を南北に走っている御幸町通りは豊臣秀吉が京都の町を改造した時に新たに引かれた通りである。
軒が低く、屋根に緩いカーブを持たせているのは「むくり屋根」といって京都地方伝統の姿である。
軒下漆喰塗りの壁には虫篭窓(むしこまど)が明けられ、屋根裏部屋の明り取りとなっている。
一階正面の目の粗い格子は酒屋格子といって無双窓(むそうまど)の形式になっており、内側に薄い格子板が添わされていて左右にずらすだけで遮蔽ができるようになっている。

狭い間口に比べ奥に長い建築は「町屋」と呼ばれ、入口から奥へ通り土間が通っている。
この中井酒造では、通り土間の左側が座敷で住まいの部分、右側が吹抜きの作業場になっている。
この建物の中では酒造り全工程のうち、新米の貯蔵、洗米、米蒸し、地下室での麹作りまでが行われ、仕込・貯蔵などは別棟で行われた。

蒸し竃の近くには酒造り職人である蔵人(くらびと)が休憩する「会所部屋」があり、座敷の上の屋根裏部屋には蔵人の寝部屋がある。
中井酒造の竃は、解体時のまま、レンガ造りとした。江戸時代までは土造り、石造りであったが、レンガ造りになり、燃料も薪から炭、石炭へと変わるなど明治時代に大きく改良を遂げたものである。


安田銀行会津支店

20.安田銀行会津支店
旧所在地 福島県会津若松市大町
建設年代 明治40年(1907)


明治5年(1872)国立銀行条例が発布され、翌年東京の兜町海運橋際に第一国立銀行が開業した。
一方、明治9年日本橋駿河町にあった為替バンク三井組が三井銀行に改組され、私立銀行も創立をみた。
この二つは銀行業の創始を物語るものであるとともに、明治初期の代表的擬洋風建築として親しまれてきたが、明治30年代に入って、相次いでその姿を消した。

明治12年(1879)国立銀行の設立認可が153行で打ち切られると、それ以降私立銀行の設立が急速な勢いで増えてくる。
安田銀行も明治12年認可を受け、翌13年に開業している。最初は栃木、宇都宮の二店であったが、その後東北地方に展開し、明治23年には会津若松に若松支店が設けられた。
当初は既存の土蔵造(どぞうづくり)の建物を借りて営業していたが、明治40年(1907)この建物が新店舗として落成した。

伝統的な土蔵造をもとにしているが、要所には洋風のデザインを施しており、玄関の石柱、正面と右側の面の石積の腰壁、窓の太い鉄格子、軒蛇腹等、いずれも新しい洋風の手法によるものである。

土蔵造は太い柱を厚い土壁で塗り込んでしまう日本古来の工法で、火災に強いという特長を持つ。防災上大変有効なこの工法に、洋風のデザインがうまくかみ合い優れた明治建築を生み出した良い例である。
又、側面のなまこ壁もこの建築に美しさを添えている。

室内は外の意匠以上に洋風の手法が取り入れられている。まず目につくのは高く吹き抜かれた営業室で、二階の窓から入る光が白い壁に反射して、室内が大変明るくなっている。
二階ギャラリーを支える四本の柱は溝彫(みぞぼり)され、その脚部には西洋風の繰形が施されている。カウンターの腰板にも新時代の手法が用いられている。


札幌電話交換局

21.札幌電話交換局(重要文化財)
旧所在地 札幌市大通
建設年代 明治31年(1898)


1844年アメリカ人モールスが電信機を発明、ついで1876年(明治9年)には同じくアメリカ人のベルが有線電話の実用化に成功した。このように通信手段が飛躍的な進歩をとげている時期に日本は開国する。

維新後直ちに電信による全国通信網整備の計画が実施されたが、ベルが電話を発明すると、早くも翌明治10年(1877)日本にも紹介され、同23年には東京と横浜で電話交換業務を開始、以後徐々に全国に普及していった。
この札幌電話交換局は明治31年(1898)暮に竣工、同33(1900)年から交換業務を開始している。

外廻りの壁を厚い石で築き、内部の床、間仕切り壁、小屋組を木造で組み上げ、屋根には桟瓦を葺いている。
一階の窓は葉飾(かざり)を刻んだ要石(かなめいし)を持つアーチ窓、二階は(まぐさ)式の窓で小庇がつけられている。
二階窓下の胴蛇腹には大きな円形の花紋が連続して刻まれ、全体の雰囲気を和らげる効果をあげている。
壁面を胴蛇腹で分け、上下階の窓のデザインをかえる手法は、西欧でよく用いられたもので、ここでも単調になりがちな外観を印象深いものにしている。

・胴蛇腹花紋

この建物は、明治43年(1910)に同形式による大増築がなされており、このため明治43年の創建と思われてきたが、解体の際に増築側の間仕切り壁に当初の石造外壁が塗り込められていることが発見され、明治31年竣工の記念的建造物であることが判明した。


札幌電話交換局

札幌電話交換局

・電話機
日本で初めて実用に供された電話機はガワーベル電話機であった。
明治29年にはデルビル磁石式壁掛電話機が実用化され、以後大正、昭和と広く使われた。
磁石式電話機は、発電機を内蔵するもので、ハンドルを回して自ら通信回路を構成する。
一方交換機は殆どが手動であったが、明治末期には自動交換機も使用されるに至った。


明治村2丁目

一通り2丁目を見終えたので続いては3丁目だ。


次回に続く!

No.047ALWAYS 二丁目の文化財
場 所愛知県犬山市 明治村2丁目
日 時2012/03/22晴/曇
備 考博物館明治村
引 用ALWAYS 三丁目の夕日\'64 Blu-ray豪華版
ALWAYS 三丁目の夕日\'64 Blu-ray豪華版
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