【第46話】愛知県犬山市 明治村1丁目 - 愛知

【第46話】愛知県犬山市 明治村1丁目



【第46話】ALWAYS 一丁目の文化財
前回の失敗から一カ月経とうとしていた3月22日、奇しくも私の誕生日企画として明治村再訪が叶った。……が?


3月22日。私の誕生日である。
そんな日にゆっくりと写真撮影もよかろう……と思っていたらなんとてけテケ側に制限時間があるらしい。
思い立ったが吉日は必ずしも吉日ではない。思い出した。

事前に開村日であることを確認してから(爆)、今回は車で明治村へと向かった。
(今回はやや足早の紹介になってしまうことを御了承願いたい。)

抑々明治村とは何なのか?
明治村は簡単に言えば敷地内に明治時代の建造物を移築した博物館である。
指定・登録文化財が数多く存在し日本のテーマパークで第3位を誇る敷地面積を持つが、愛知県に観光に来る者達の中でこの明治村に来る者は何故かほとんどいない。大半が名古屋めし(笑)や名古屋城(笑)である。
(抑々、城目的で愛知に来るのならば全国に12しかない現存天守を持つ犬山城に行くべきである。)

ただ最近はその歴史的価値からドラマロケやアニメの舞台として使われるようになってきた。

では早速その歴史な建物の数々を紹介していこう。



尚、アニメでよく使われた1.第八高等学校正門、10.東京盲学校車寄、11.二重橋飾電燈は撮り忘れたのか写真がなかったので(爆)、大井牛肉店から紹介していく(例の如く橙背景は引用である)

牛肉店

2.大井牛肉店
旧所在地 神戸市生田区元町
建設年代 明治20年(1887)頃


横浜、長崎につぎ、慶応3年(1867)神戸が開港した。
外国船が寄港し、外国人居留地には外国人の住宅が次々と建てられた。
これに伴い、外国人相手の商売が興り、船や在住外国人に牛肉を納める者達も出てきた。
その一人岸田伊之助が明治20年(1887)頃牛肉販売と牛鍋の店として建てたのが、大井牛肉店である。
外国の商館が立ち並ぶ新しい町、その街中の商店にふさわしく、洋風の建物で、正面を華やかに飾った。
一階の入口と二階のベランダをアクセントとして、間口の狭い壁面に変化をもたせるとともに、西洋古典様式の柱と半円アーチの窓を配して全体を大きくみせている。
洋風のデザインであるが、日本古来の技法が用いられ、木造に白漆喰を塗って柱や窓廻りを形作っている。
屋根構造も和小屋で、桟瓦を葺いている。
玄関を入ると、店の土間が建物の前半分を占め、裏に抜ける通り土間が左奥に、右奥には座敷の配置となっている。
牛鍋を供する場所は二階の大小四つの部屋でありいずれも板敷きの洋間になっている。

日本では獣の肉は嫌われていたが、開国に伴い外人が牛肉を食する習慣を知ると、「牛肉食わねば開化不進奴」と粋がる風潮が、東京を皮切りに次第に全国に広がっていった。
明治村の大井牛肉店は、牛鍋屋としての営業も行っている。


三重県尋常師範小学校・倉持小学校

3.三重県尋常師範学校・蔵持小学校
旧所在地 三重県名張市蔵持
建設年代 明治21年(1888)


明治19年(1886)の師範学校令により、東京に高等師範学校が、又各県に一校ずつ尋常師範学校が設けられることになった
尋常師範学校は小学校教師の養成を目的としており、国民皆学の基礎となったものである。
明治21年に三重県の尋常師範学校本館として建てられたこの建物は、昭和3年(1928)、本館の改築に伴い県下名張市の蔵持村に売却・移築され、蔵持小学校として使われていた。
明治村で保存公開されている三重県庁舎と同じ清水義八の設計になり、三重県庁舎と同様、E字形左右対称二階建であったが、昭和48年(1973)明治村に移築保存するに際しては、特色ある中央玄関部分と右翼の二教室分のみを遺した。

県庁舎が清水義八による洋風建築初期の作品で、単純で古典的な印象を与えるのに対し、約10年のちのこの建物ではデザインが消化されて、中央の玄関部を除けば穏やかにまとめられている。
玄関は四本の円柱を立ててアーケードとし、二階にベランダを設け、入母屋の屋根をいただく。
アーチや入母屋の破風に草花をモチーフとした縁飾りをあしらい、懸魚にも洋風の雰囲気を遺している。二階ベランダの手摺、軒廻り、入母屋妻のデザインなどにも設計者の工夫が見られる。
翼屋の教室部分の外壁は洋風の下見板張りになっており、白漆喰塗の玄関部とあざやかなコントラストをなしている。


三重県尋常師範小学校・倉持小学校
▲校舎内は当時の資料や教科書が保存されている。

三重県尋常師範小学校・倉持小学校
▲教室。中々開放的である気がする。

三重県尋常師範小学校・倉持小学校

素人は大抵ウデもないくせにカッコよく撮りたくなるもんである(爆)。

近衛局本部付属舎

4.近衛局本部付属舎
旧所在地 東京都千代田区千代田
建設年代 明治21年(1888)


慶応3年(1867)の大政奉還ののち、徳川幕府の居城であった江戸城は天皇の城となり、明治2年(1869)旧西丸殿舎を宮殿としたが、同6年に炎上、このため新宮殿建設の計画が立てられた。
西南戦争等で遅れ、皇居内の建物が一応の整備をみたのは明治21年(1888)のことである。
この建物は宮城警護のために設置された皇宮警察の庁舎の一部で、明治20年(1887)坂下門内に着工されたが、建設中に用途を近衛局(1889年、近衛師団と改称)本部に変更して翌年に完成した。
その後、師団本部は移転したため、皇宮警察本部がここへ移り、昭和42年(1967)まで坂下護衛所として使用した。

木造平家建瓦葺で内外壁を白漆喰で塗りあげたこの別館は、正面に軽快なアーケードを配した開放的な建物になっており、アーチを縁どる細い水切も軽やかな印象を与えている。
古図によれば、創建当初は八つのアーチの柱間に高さ90cm程の鋳鉄製の手摺があり、なお華やかなものであった。
しかし、解体時には失われており、このため復原されていないが、基壇等一の所々に開けられた床下換気口の格子金具に当時のデザインの一端をしのぶことができる。
尚、明治村への移築・復原に際して、室内の間仕切壁を取り払った。


近衛局本部付属舎

中では偉人のパネルと共に記念撮影をすることができる。

近衛局本部付属舎

……しかしパネルと雖も調子乗ったむさいオッサン偉人にとり囲まれガンをつけられながら撮られるというのも何だか嫌な感じである(爆)。

赤坂離宮正門哨舎

5.赤坂離宮正門哨舎
旧所在地 東京都港区元赤坂
建設年代 明治41年(1908)


銅板葺の丸屋根をいただき、外壁を白ペンキで塗ったこの可愛らしい建物は、赤坂離宮正門両脇の内外に、離宮の創建当初からその警護のため設けられていた四基の哨舎のうちの一つである。
現在迎賓館となっている赤坂離宮は、明治42年(1909)東宮御所として竣工した代表的な明治の洋風宮殿で、本館前面には広大な西洋式庭園をはさんで見事な洋風の正門が設けられ、この正門哨舎もこれらに調和するよう設計されている。

元紀州徳川家の中屋敷は、明治5年(1872)赤坂離宮とされ、翌6年の皇居炎上から同21年(1888)の新皇居落成までは仮皇居となっていた。
その後は東宮御所として使われることになり、明治20年代の末、新御殿造営の計画が開始された。
設計にあたった片山東熊は、明治10年(1877)に開講された工部大学校造家学科でイギリス人建築家コンドルの教えを受けた第一回卒業生四人のうちの一人で、卒業後は工部省を経て宮内省内匠寮に移り、帝国奈良博物館、帝国京都博物館等を手がけ、宮廷建築家となった。
片山は赤坂離宮の設計にあたって、調査のため度々欧米諸国を訪ねているが、なかでもフランスのベルサイユ宮殿やルーブル宮殿の意匠に強い興味を示し、設計の範としている。


聖ヨハネ教会堂

6.聖ヨハネ教会堂(重要文化財)
旧所在地 京都市下京区河原町通五條
建設年代 明治40年(1907)


明治6年(1873)、鎖国以来二百数十年続いたキリスト教の禁止令が解かれ、各地に教会堂が建てられるようになった。
この聖ヨハネ教会堂は、明治40年(1907)京都の河原町通りに建てられたプロテスタントの一派日本聖公会の京都五條教会で、二階が会堂に、一階は日曜学校や幼稚園に使われていた。
中世ヨーロッパのロマネスク様式を基調に、細部にゴシックのデザインを交えた外観で、正面左右に高い尖塔が建てられ、奥に十字形大屋根がかかる会堂が配された教会である。
正面の妻と交差廊の両妻には大きな尖塔アーチの窓が開けられ、室内が大変明るい。
構造は、一階がレンガ造、二階が木造で造られ、屋根には軽い金属板が葺かれておりこれは日本に多い地震への配慮とも考えられる。また構造自体がそのまま優れたデザインとして外観・内観にあらわれている。

開国後多くの宣教師が来日するが、その中には宣教だけでなく実業面、教育面でも業績を遺した人もいた。
この教会堂を設計したアメリカ人ガーディナーもその一人である。
ハーバード大学で建築を学んだガーディナーは明治13年(1880)来日、立教学校の校長として教育宣教にあたる一方、建築家としても立教大学校校舎、明治学院ヘボン館、日光真光教会等の作品を遺している。

十字形平面の会堂内部は、化粧の小屋裏をあらわし、柱などの骨組が細目に見えることもあって、実際より広く感じさせる。
京都の気候に合わせて使ったと言われる天井の竹の簀も、明るい窓の光を反射させ、より開放感を増している。


聖ヨハネ教会堂

一丁目で一番インパクトのある建物ではないだろうか。
三河国に住んでいると無駄にでかい弘法大師像を見ることはあれど、このような立派な教会を見る機会はほとんどないのでとても印象に残っている。

聖ヨハネ教会堂

二階の会堂。
屋根が高く開放的である。

聖ヨハネ教会堂
聖ヨハネ教会堂

建築のことはよくわからないが、非常にいいセンスである。

聖ヨハネ教会堂

素晴らしい建物だったと充実した気持ちで外に出ようとすると視界に入ってくるのは入鹿池。
好い風景だが唐突に現実に戻された(爆)。

学習院長官舎

7.学習院長官舎
旧所在地 東京都豊島区目白
建設年代 明治42年(1909)


文明開化の名のもとに、様々な場で洋風化が進められていくが、なかでも官公庁をはじめ、学校、軍隊、商工業などの仕事の場、公的な場では早くから洋式が採り入れられた。
これに対し、私的な生活の場である住宅においては、洋風の波が及ぶものの完全には洋式とは成り得ず、和洋の混在する形式が生まれた。

明治42年(1909)に建てられたこの学習院長官舎も洋館と和館とをつなぎ合わせた形式になっている。
学習院長という公的な立場での接客や実務には洋館部分を使い、私的な生活には日本座敷を用いた。
立式生活の場である洋館は軒端が高くいかめしい造りで、洋風の下見板張の壁面には水切を兼ねた胴蛇腹が廻らされ、その上下に丈の高い上ゲ下ゲ窓が整然と並んでいる。
一方、座式生活の場である和館は、総二階建であるが、洋館に比べ屋根が低い。

この学習院長官舎は、学習院が四谷から現在の目白に移された際、他の校舎とともにその構内に建設されたものであるが、当時の学習院長は陸軍大将乃木希典で、第十代目にあたる。

巾の広い階段室を間に、手前に洋館、奥に和館を接続させており、階段室の前には玄関ホールを設置している。
この階段室を通って上下階とも洋館と和館の間を行き来できるようになっているが、さらに和館の奥に専用の階段が設けられている。
玄関には鉄製の軽やかな屋根がかかり、その妻には桜の花弁を表した飾りが設けられている。


西郷従道邸

8.西郷從道邸(重要文化財)
旧所在地 東京都目黒区上目黒
建設年代 明治10年(1877)代


木造総二階建銅板葺のこの洋館は、明治10年代(1877~1886)のはじめ西郷隆盛の弟西郷從道が東京上目黒の自邸内に建てたものである。
西郷從道は、明治初年から度々海外に視察に出掛け、国内では陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、維新政府の中枢に居た人物で、在日外交官との接触も多かった。
そのため「西郷山」と呼ばれる程の広い敷地内に、和風の本館と少し隔てて本格的な洋館を接客の場として設けたのである。

在日中のフランス人建築家レスカスの設計と考えられ、半円形に張り出されたベランダ、上下階の手摺等デザインもさることながら、耐震性を高めるための工夫がこらされている。
屋根に重い瓦を使わず、軽い銅板を葺いたり、壁の下の方にレンガをおもり代わりに埋め込み、建物の浮き上がりを防いでいること等にその現れをみることができる。

レスカスは明治5年(1872)には生野鉱山の建設に従事、同6年には皇居の地盤調査にも参加している。
また、ドイツ公使館や三菱郵船会社の建物を設計し、明治20年頃まで建築事務所を開業していたが、その傍ら、日本建築の耐震性についての論文をまとめ、自国の学会誌に寄せている。
二階各室には丈の高い窓が開けられている。フランス窓と呼ばれるもので、内開きのガラス戸に加えて外開きの鎧戸が備えられ、窓台が低いため、間に鉄製の手摺が付けられている。
窓上のカーテンボックス、手摺、扉金具、天井に張られた押し出し模様の鉄板、そして流れるような曲線の廻り階段等、内部を飾る部品は殆ど舶来品と思われる。特にこの廻り階段は、姿が美しいだけでなく、昇り降りが大変楽な優れたものである。


西郷従道邸

書斎。置かれているものほとんどが何の柵もなくそのまま置かれた状態なので本当に触ったり座ったりしてもいいものなのかお互い訝しげな顔をしていた。

西郷従道邸

寝室。流石に寝る気にはなれない(爆)。

西郷従道邸

置いてある全ての物が高価に見えてくる(苦)。

森鷗外・夏目漱石住宅

9.森鴎外・夏目漱石住宅
旧所在地 東京都文京区千駄木町
建設年代 明治20年(1887)頃


明治中期のごくありふれた建坪39坪(129.5㎡)余りのこの建物には、数々の由緒が遺されている。
明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものであるが、空家のままであったのを、明治23年森鴎外が借家、一年余りを過ごした。又、明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が借りて住んでいた。

鴎外は、ここに移り住む同じ年の1月、処女作小説「舞姫」を発表、この家では「文づかひ」等の小説を執筆し、文壇に入っていった。
その後数々の作品を残し、明治の文豪の一人に挙げられるが、本業は陸軍の軍医で、明治17年(1884)から4年間ヨーロッパに留学、教育を受ける間に、「日本家屋論」をドイツの学会で発表した。
これは、日本の家について、欧米から「不衛生」等と指摘されることに反駁するための論文であったが、認めざるを得ない点として、次のように示している。
"家が低く、立ち机には向かない。畳は不衛生な材料である。家の構造そのものが暖房に向いていない。"と。

一方、約10年遅れてこの家に住んだ漱石は、ここで「吾輩は猫である」を発表、文壇にその名を高めた。
文中に描写された家の様子は、猫のためのくぐり戸をはじめ、よくこの家の姿を写している。
二人の文豪が相次いで住んだことは由緒のあることだが、この家が当時の典型的中流住宅であって、かつ現代住宅へ発展していく新しい芽がいくつか含まれている点も注目される。
3畳の女中部屋の前に、ほんの短いものではあるが中廊下のはじまりが見られ、各部屋の独立へと一歩踏み出している。
また、南の面に書斎を突き出して建てており、この形が後に洋間の応接室として独立していく。
西郷從道邸、学習院長官舎等と比較する時、一般庶民の洋風化の限界がそこにある。


森鷗外・夏目漱石住宅

夏目漱石になりきってみよう!

死んでもお断りである。
抑々兵役逃れのために蝦夷へと遁走した神経質なモノカキが何故偉人なのかさっぱり理解できない。
主人公のキャラクターと雖も田舎を馬鹿にしている時点で偉人だろうがなんだろうが好かぬモノカキである。

森鷗外・夏目漱石住宅
森鷗外・夏目漱石住宅

縁側に置かれた置物のネコ。猫に罪はない。

森鷗外・夏目漱石住宅

雰囲気作りに置かれた湯呑茶碗がまた好い。欲を言えばもう少し地味な色が良かったが。

明治天皇・昭憲皇太后御料車
▲右側が昭憲皇太后御料車(5号御料車)、奥が明治天皇御料車(6号御料車)である。

12.鉄道局新橋工場と明治天皇・昭憲皇太后御料車(鉄道記念物)
旧所在地 東京都品川区大井町
建設年代 明治22年(1889)


開国前、ロシア使節プチャーチン、アメリカ使節ペリーがそれぞれ蒸気機関車の模型を持参した。
それに刺激された佐賀藩では安政2年(1855)、日本最初の模型機関車を製作した。
維新の後、新政府は政治安定のためには東西両京を結ぶ鉄道が必要と決意し、調査に着手した。
そして明治5年(1872)新橋・横浜間に初めての蒸気機関車が走り、ついで同7年には大阪・神戸間も開通、東西の基点ができた。
当時の役所は鉄道寮と称し東京に置かれていたが、明治7年本拠を大阪に移し、同10年鉄道局と改称、さらに同14年には本局が神戸に移された。
これより先明治8年には神戸工場で国産第一号の客車が製造されているが、これはイギリスから輸入した走行部分に国産の木材の車体を載せて造られたものであった。
なお、蒸気機関車の国産第一号の製造はこれより大きく遅れ、明治27年(1894)にやはり神戸工場で完成している。

客車・機関車の国産化が進められるのと同様、鉄道施設の国産化も行われた。
明治22年(1889)に建てられたこの鉄道局新橋工場は、日本で製作された鋳鉄柱、小屋組鉄トラス、鉄製下見板、サッシ等を組み立てたもので、屋根は銅板で葺かれている。
明治初年にイギリスから資材一切を輸入して造られた鉄道寮新橋工場(明治村4丁目に移築保存)に倣って、フィート・インチを設計寸法として造られているが、国産鉄造建築物の初期の実例として、当時の我が国の技術水準を知る上でも貴重なものである。
この鉄道局新橋工場の小屋組は、鉄製キングポストトラスで、形式・部材形状ともに先の鉄道寮新橋工場に倣ったものであるが、現代の小屋組よりもシンプルで軽やかである。
明かり取りになっている越屋根は、後に付け加えられたものであるが、ここに使われている鉄製窓サッシには「I.G.R.KOBE1889」との陽刻銘があって、鉄柱と同年代の国産鉄製サッシとして貴重である。

・昭憲皇太后御料車(5号御料車)(鉄道記念物)
御料車とは天皇・皇后・皇太后・皇太子のための特別な車輌のことで、5号御料車は最初の皇后用御料車として製作された車輌である。
全長16m余、総重量約22tの木製2軸ボギー車で、車内には帝室技芸員の橋本雅邦・川端玉章が描いた天井画、昭憲皇太后のご実家一条家の家紋の藤をあしらった布が椅子や腰張りに使用されているなど、華麗な内装がなされている。

・明治天皇御料車(6号御料車)(鉄道記念物)
この御料車は明治時代に製造された6両の御料車のうち一番最後のものである。
車輌の全長は20m余、総重量約33.5tの木製3軸ボギー車である。
この車輌は歴代の御料車の中でもっとも豪華な車輌といわれ、車内天井に張られた蜀江錦、御座所内の金糸の刺繍や七宝装飾、また螺鈿装飾、木画といわれる木象嵌など日本の伝統的な工芸技術の粋を集めたものといえる。


三重県庁舎

13.三重県庁舎(重要文化財)
旧所在地 三重県津市栄町
建設年代 明治12年(1879)


明治維新政府による地方行政は、明治2年(1869)の版籍奉還に続く明治4年の廃藩置県に始まる。
この時から中央政府によって任命された府知事・県令が各府県に派遣されるようになるが、さらに明治6年には地方行政と勧業のための中央官庁として内務省が設置され、地方行政は急速にその整備が進められていった。
府知事・県令を迎えた各府県では、当初は既存の建物を県庁舎として使っていたが、開明的な県令は先を争うように洋風の新庁舎を建設するようになった。
この三重県庁舎も明治9年(1876)、県令岩村定高によって計画され、3年後の同12年に完成したものである。

間口が54mに及ぶ大きな建物で、玄関を軸に左右対称になっており、正面側には二層のベランダが廻らされている。
この構成は当時の官庁建築の典型的なもので、明治9年東京大手町に建てられた内務省庁舎にならったものである。
構造は木造で、内外とも柱を見せない漆喰塗大壁で、屋根には桟瓦を葺いている。
正面に突き出した車寄の屋根には手摺をあげ、入母屋屋根の破風には菊花紋章を飾るなどして建物の正面を引き立たせる一方、両翼の正面側の壁面角には黒漆喰で太い柱型を塗り出し、全体を引き締める役割を持たせている。
尚、窓は全て上ゲ下ゲ硝子窓であるが、妻面の窓は他の部分と異なり、外に鎧戸が付けられている。

この建物の設計は地元三重県の大工清水義八を中心に進められたが、清水義八は他にも県内の建物を手がけており、同じく明治村に移築されている三重県尋常師範学校も彼の手になったものである。


三重県庁舎

三重県庁舎

基檀、礎石、円柱、エンタブレチュアの構成は古代ギリシャ・ローマの神殿に由来するものである。
出入口や窓も洋風が取り入れられ、半円アーチや円弧アーチの形で納められている。


三重県庁舎

正面入口だけは、木製の建具枠の外側に石製の太いアーチ状の額縁が廻らされている。
扉や額縁は木目塗という技法で塗装されている。
洋風建築とともに西洋から伝えられた技法で木の素地を見せず、ペンキを塗って別の高価な木材種(例えばマホガニー、チークなど)の木目を描く方法である。
明治村には、この木目塗が使われている建物として菅島燈台付属官舎、東山梨郡役所、長崎居留地二十五番館の三棟がある。


三重県庁舎
▲2Fから先程の鉄道局新橋工場を見る。隣にあるのが撮り忘れた11.二重橋飾電燈。

上で一丁目で最もインパクトのある建物として聖ヨハネ教会堂を挙げたが、一丁目のシンボルはやはりこの三重県庁舎かもしれない。
愛知県民の遠足でこの明治村に来ると大抵この三重県庁舎で点呼をとる(爆)。

三重県庁舎

三重県庁舎

一段高いところに説明付きで飾られていると他の家財との格の違いを感じる。

三重県庁舎

まったく、こういう風景を見ていると適当なクラシックをかけたくなるから良くない。

冒頭で書いたとおりこの日は制限時間があったので脳内でクラシックをかけて優雅に休憩とはならず、一通り見たら直ぐに二丁目へと向かった。
至らぬ写真ばかりなので再訪して情報を更新・補完したいものである。


次回へ続く!

No.046ALWAYS 一丁目の文化財
場 所愛知県犬山市 明治村1丁目
日 時2012/03/22晴/曇
備 考博物館明治村
引 用ALWAYS 三丁目の夕日\'64 Blu-ray豪華版
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