【第241話】静岡県浜松市天竜区 佐久間 - 最新ネタ

【第241話】静岡県浜松市天竜区 佐久間

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【第241話】駅図書館の歴史目録
前回の飯田線からまだ半年も経っていないが、飯田線旧線を調べたくなったので真夏の飯田線巡業。


梅雨真っただ中の7月12日。この日は飯田線旧線を調べるため、亦、飯田線の駅ノート情報を調査するため飯田線に乗ることにした。
いつもは「晴れろ!晴れろ!」と天照大神に頼み込むが今回はそれほど天候に左右されないネタであり抑々梅雨なので「大雨が降らなければいい」程度の気分であったが、日々の信心の賜物かうまいこと傘要らずの天気となってくれた。

豊橋駅

豊橋おりて乗る汽車は これぞ豊川稲荷道 ~♪
東海道にてすぐれたる 海のながめは蒲郡 ~♪


9時台の名鉄特急に乗って豊橋に来た。
この時間帯の後ろ2両は補助席が必ずと言っていいほど空いているので移動が楽でいい。片道730円は恐ろしいが(爆)。

豊橋駅前

県道143号駅前大通。
人の流れ的にはマクドや精文館書店本店のある通りのほうが賑やかかもしれないが写真としてはこちらのほうが映える。尤も、駅構内に成城石井ができたことにより流れは多少変わったかもしれない。
決定的に言えるのは、昔のほうが栄えていたということである。
因みにカルミアの喫茶店は老人の集会場と化していた(爆)。

豊橋駅前
▲豊橋西武跡地にできた都会ヅラした施設ココラアベニュー。

私にとって豊橋という地は思い出深く、中でも一番印象に残っているのは豊橋西武である。
駅から今は亡き地下道を通り豊橋西武B館へ。御馴染むらたのたこ焼きの匂いやチャリンチャリンとカステラ饅頭(西武饅頭)、グルグル回る菓子の山を見て目を輝かせたものである。



グーグル先生によるとあのグルグル回る菓子の山はラウンド菓子と言うらしい。
いつも買うものと言えば飴とゴムに入った丸羊羹(子供のチョイスか?)。映画館もあったし一日過ごすにはちょうどいいところだったのだ。

あれから月日は流れ豊橋は廃れてしまった。変わっていないものと言えば駅前に屯するホームレスの数くらいか。

豊橋駅

駅の中に戻り、カルミア内の本屋にてノートを買っておいた。
東栄駅に駅ノートがあるのは知っていたので、残りページ数が少なかった時用の寄贈としての購入である。

※尚、私は住民の理解が得られていない駅や管理人のいない駅にノートを新設する気は毛頭ない。
ゴキブリホイホイをおけばゴキブリが寄ってくるの如く、ノートを置けば火事等の犯罪を犯そうとする者が現れることもある。
そうなれば「犯罪を起こしたやつが悪い!」と責任放棄するわけにもいかず「元はと言えば得体の知れないノートがある日突然置かれたから」となるのが道理というものである。
行動を起こすということはそれだけ責任が伴ってくるということを自覚しなければならない。

豊橋駅

飯田線前にあるキオスクでいつものさけわかめおにぎりを購入し2番線ホームへ行くも………全く人がいない(爆)。

豊橋駅

時間になり313-3000が入線。相変わらず全く人がいない。
「ラッシュ過ぎた平日だし発車間際にちらほら乗ってくるだろう」と思いつつ進行方向左側のボックスシートに着席。

313-3000

なんだっそら、耐えられない。出発直前になってもガラガラのままである。
18きっぷ、青空フリーパスシーズンではあり得ない光景に若干の戸惑いを覚える。
本長篠を越えてから食べようとしたさけわかめが豊川の時点でもう胃袋の中だった。

313-3000

本長篠到着。途中駅では乗降客の微減増を繰り返していたがこの駅に来て愈々減るだけになった。

飯田線

本長篠出発後、前の車両には私を入れて客が2人しかいなかった。
おかげで席間移動して写真を撮るのに他人を気にする必要がなくて楽だったが……

柿平

【第76話】秘境のメリークリスマス・前編 以来の柿平。相変わらず閑散とした駅ホーム出入り口にうめの湯の幟が靡いていた。

浦川

浦川を過ぎると大千瀬川に架かる長いつり橋が見えた。
大千瀬川に挟まれた中州に浦川キャンプ村にアクセスするための橋である。
流石にこのあたりまで来ると川の透明度が段違いで目に優しい。

佐久間レールパーク跡

中部天竜駅。今回はいつもの豊橋0810ではないので停車時間は2分。
となるともう佐久間レールパークの残骸を撮るしかない。
若しまだ佐久間レールパークが残っていたら、この日の予定は佐久間ではなく中部天竜だっただろう。

佐久間発電所

中部天竜を越えれば愈々次は佐久間である。
車窓から見える鉄骨の城、佐久間発電所。この第241話で最も重要な施設である。

佐久間駅
佐久間駅

斯くて、佐久間駅に到着。2時間10分の乗り鉄であった。

佐久間図書館

駅には佐久間図書館が併設。よく見ると佐久間レールパークの残骸がここにもあった。

佐久間図書館

全体。佐久間図書館は平成元年にオープンした。

佐久間図書館

左側が駅待合室である。
駅併設というより図書館の中に駅がある感じだ。

佐久間図書館

愈々飯田線の歴史を調べるため入館。
カウンターに職員の方がいたので挨拶をすると共に趣旨を説明。町史や工事史はあるか尋ねてみたところ……

本

おぉ……(悦)
町史は間違いなくあるとして、ここまで知りたい情報が固まっておいてあると非常に助かる。全く以て素晴らしい管理だ。

職員の方は「今日も暑いですねえ」と言いながら開いていた窓を閉め切り、クーラーをつけてくれた。突然現れたよそ者であっても快適な環境を提供してくれることに感謝の言葉しかなかった。
序でに「やはりこの地域も暑いほうなのですか」と聞いてみると「昔は川が流れてたからそうでもなかったけどダムが出来て川が堰きとめられてからは蒸し暑くなったと聞いてます」とのことだった。ダムの功罪を早くも聞いた瞬間であった。

隣にある「静岡県の巨木」も気になるところではあるが(爆)、今日は1時間しか時間をとってないので我慢して飯田線に関係ある物を数冊取り出して調べていくことにする。
尚、平日の昼間と言うこともあり利用者は私だけだった。


先ず、飯田線旧線を知る前に飯田線の歴史を知っておかねばならない。

資料
▲「佐久間町史 下巻」より

一、まず南部の豊川鉄道がスタート
明治二二年、東海道線が全通すると、豊川稲荷参詣客の便を測ることを主な目的とし、同二九年に豊川鉄道が設立され、翌年、豊橋-豊川間五マイル(約八キロ)余に蒸気鉄道が開通した。
当初は舶来のC型タンク機関車が、小さなマッチ箱客車と貨車を牽く貨客混合列車で、一日七往復が運転されていた。
その後豊川に沿って順次路線を延長、明治三三年には早くも大海に達している。
その先三河川合までの延長は鳳来寺鉄道という別会社の手で進められたが、これは本社も一部の役員も豊川鉄道と兼ねた延長のための姉妹会社といえよう。大正一四年には、両社線がほぼ同時に一、五〇〇ボルトで電化、同形の電車や電気機関車を新造してこれを共用していた。  (以下、肌色背景は「保存版 飯田線の60年」より引用)

二、北部には長野県下で初の電車が
一方、明治二二年、中央線の敷設ルートの争奪で木曽谷側に敗れた伊那谷の人びとの中に、私鉄で井下伊那地方を中央線と結ぼうとする動きがでてきたのは当然の結果であった。
同二八年には早くも辰野-飯田間に軌道条例に基づく電車線の敷設が出願され、翌々年にはこれが特許されている。しかし未だ機は熟さず、伊那電車軌道の創立をみたのは同四〇年になってからであった。そして同四二年末になってやっと辰野-松島間五マイル余に電車が走り出したのである。これは長野県下初の私鉄であり、電車の運転であった。
しかし軌道条例によったため、小さな路面電車で、連結運転も許されなかった。その後も小刻みに南へと路線を延長したが、大正二年延長の伊那町以南は軽便鉄道法による鉄道とし、同八年、社名を伊那電気鉄道と改称している。
同一二年には、伊那町以北も地方鉄道に改め、以後より大型のボギー車や電気機関車も投入されて輸送力は着実にアップされていった。
同社は飯田-天竜峡間に免許を得ていた飯田電気鉄道を合併し、昭和二年末には天竜峡に達している。

三、わが国最長の電車線・四線連絡ルート
南北双方から延びてきたこれらの私鉄を天竜川沿いに結ぼうという構想は、豊川鉄道などと電力資本(東邦電力)との協力で設立された三信鉄道の手によって実現されることになった。
長野県側の北線、愛知県側の南線をほとんど同時に着工、静岡県を経由をして部分延長を繰り返しながら、昭和一二年八月、大嵐-小和田間が開通したのを最後に、ついに豊橋-辰野間が二〇〇キロ近い一本の鉄路で直結されたのである。
この区間は、峻険な地形から、測量にアイヌ人を起用したことは有名であるが、建設工事に際しても五二名もの犠牲者を出している。中部天竜駅北方の天竜川橋梁畔にある殉職碑には多くの朝鮮人らしい名も刻まれ、難工事だったことを今に伝えている。


資料
▲1937年の三信三輪(東栄)~小和田の路線図。

以上の出来事を時系列に一枚にまとめると以下のようになる。

資料

この路線は総延長66.9kmの間に171か所のトンネルと97か所の橋梁が存在し、路線延長の約5割がトンネルか鉄橋という凄まじい路線となり「三信地下鉄道」という異名をとるほどであった。
当時の技術でこれだけの路線を私鉄だけで完成させたことは驚異でしかない。
この四線連絡線は田口鉄道を含めた沿線案内に「中部日本縦貫鉄道」というタイトルが付けられるほどで、東海道本線と中央本線を結ぶ重要路線として期待されていたが、線形の悪さと貧弱な軌道によって輸送力は制限され沿線人口も希薄だったため客貨の需要は伸び悩み、幹線鉄道となることはできなかった。

時は流れ、戦時。流れが変わる。

四、戦時国策で国鉄飯田線に
四線連絡ルートの国有化については、まず、昭和一四年より長野県側で、四鉄道国営促進期成同盟会等が結成され陳情を行ってきたが、東海道線と中央線とを結ぶ軍事上の重要性から、同一七年暮れ、第八一回帝国議会で国有化が決定されたものである。
四社線が国鉄飯田線となって、客貨ともに輸送の一元化が図られたことは大きな効果であったが、利用者にとっては運賃が全国一律の対キロ運賃制に組み込まれ、実質値下げとなったことが大きなメリットであった。
国有化と同時に省(国鉄)からは、古い木造電車や電気機関車が応援に来たが、激増する輸送需要には追いつけなかった。
特に急激に膨張した豊川海軍工廠の工員輸送はすさまじく、そのための電車は五両増結にまで増強された。
また、酷使のために動けなくなった電車をSLで牽引する列車も三河川合まで運転されている。

戦後はひたすあ復興に努め、昭和二六年末より横須賀線で活躍していた国鉄初の長距離用電車ともいうべきモハ33系が転入し始め、四社から引き継いで引き続き使用していた雑多な社型電車や木造国電を廃車または他線区へと追いやった。
この時入線した電車の塗装がブルーとクリームのツートンカラーだったことが影響して、これがのちに、長らく当線の一般車両の塗装の標準となっている。

終戦を迎え戦後、更に流れは変わっていく。

戦災で荒れ果てた国土の再生。これは当時の国民誰もが望んだことであった。
昭和二五年(一九五〇)に国土総合開発法が、その翌々年には電源開発促進法が成立した。これを受けて設立されたのが「電源開発株式会社」であり、その最初の事業が佐久間ダムおよび発電所の建設であった。
現在のダム地点から上流にかけては川幅が狭く両岸が迫っており、岩盤も硬く、ダム建設には絶好の立地条件を備えていた。しかし佐久間ダムの建設が決定した際、問題となったのが国鉄飯田線の水没による付替え問題であった。
佐久間-大嵐間の約一三キロの区間が、ダム竣工事には満水面下八○メートルになってしまうのである。そのため新ルートは佐久間町から水窪町へと、トンネルによってダムを大きく迂回することとなった。

資料
▲昭和11年の夏焼隧道付近の敷設工事の様子。戦後佐久間ダム建設に伴って路線付け替えが行われたが、夏焼隧道は道路用トンネルとして残されている。
見聞録でこのトンネルを歩いたことはまだ記憶に新しい。(【第225話】迷人‐マヨイビト‐ 参照)

ダム湖に沈む佐久間-大嵐間に代る水窪廻り付替新線の開通は城西地区と水窪町にとっては川筋を下って二俣、浜松へ出る従来の交通パターンにとって代る重要な変化で、またこの線の開通が城西地区の佐久間町合併を可能性にしたといえる。
一方水窪、城西は米産地伊那に直結した結果ヤミ米の値が急落するということもあった。付替え線のルートについては昭和二十六年九月に水窪、佐久間、山香、城西の四町村で北遠鉄道誘致期成同盟会をつくり、佐久間から久根、西渡、城西、水窪を経て大嵐駅に出るよう陳情を行った。
西渡経由の理由としては久根、名古尾鉱山の貨物が強調されている。翌二七年には静岡県飯田線付替期成同盟会と改め四町村のほか、浜松、磐田、飯田の三市や下伊那郡を含む天竜川沿岸の町村の首長、商工会議所、商工会、森林組合の長などの賛成署名を得て、関係方面に運動した。
静岡県も二七年に始まる総合開発計画にこの付替線および二俣-西渡間の佐久間線をとり上げて援助した。
しかし電源開発と国鉄側では迂回による路線長の増加の大きいこの案に難色を示し、四キロの増加で済む現在の路線に決定した。大正八年の遠信線以来の山香村の鉄道の実現は再び将来へ持ち越された。

付替線はダムの湛水以前に完成する必要上工事が急がれ、二十九年一月十二日に中部天竜駅で起工式を行ない、予定より早く三〇年一月一一日に開業した。(「佐久間町史 下巻」(5)水窪廻りの付替線 より)

ダム工事は昭和28年に着工し、完成は同31年。あの規模の大型ダムをたった3年間で完成させてしまった。
そして今、その底ではかつて人々が活動していた村々が眠り続けているのである。

※尚、この中部天竜~大嵐間の沈んだ地域に関してはヨッキれん氏(~山さ行がねが~)が命を懸けた取材を行っているのでそちらも参照されたい。
→ 「静岡県道288号 大嵐佐久間線」レポート




折角飯田線の歴史を調べたのだから小和田の歴史も調べることにした。
今まで調べてきた書籍の中に小和田に関するものは沢山あった。

~近代交通の便を本むらより一足早く~
蛇行する急流が激しく岩を噛んで、天竜の狭窄部の中で筏師泣かせと言われた難所の一つが小和田の辺り。
中でも大輪の大渦さえ乗り切ればまずは一息というところに富山村佐太(昭和三十一年、佐久間ダム水没むらの一つ)があった。小和田に下る道から、目下に見下ろす大輪の渦に巻き込まれて、もがきあがいている筏を良く見かけたものだという。
夕方電車を降りての帰り道、まだ同じ筏がぐるぐると流れに弄ばれる哀れな姿を、門谷大家の長女敏江さん(故人)は何時までも鮮明に覚えていた。
谷間を走る一本の鉄道は、天竜川の水運に関わって生きてきた沿線のの暮らし向きにも大きく変化を及ぼした。
筏師の戻り足を電車が助けるようになって格段に運送能率を高めた反面、筏師の泊まりや休息に依存してきた村々にとっては、手ひどい打撃を食らう結果ともなった。
門谷も例外ではなかったが、向こう岸の筏の中継点佐太とをつり橋がつないで、筏労務者の乗降口ともなった川沿いの小和田が逆に蘇った。
家も増えて七軒のうち四軒がお店、大輪に二軒、向こう岸の佐太には二十軒ぐらいあって、殆どが筏衆の泊まる宿屋だった。そこへ駅の構内に宿舎が出来て、保線区の職員が二十人程常駐し始めると、まるで門谷区内に新むらが一つ出来たようなもの。人も情報も、谷間から山の上へと流れを変えた。

「子供にゃ、行きはよいよい帰りは怖いってとこか、だけどえらかったって覚えなんか何にもないんな」

門谷の子供たちは、一気に小和田に駆け降りてお菓子を買いに行く楽しみが一つ増えた。
それどころか、学校の遠足と言えば、電車に乗って平岡や天竜峡はあっと言う間、高学年になれば新野(長野県阿南町)や飯田まで足が延ばせた。
本校にできないことが門谷分校にはと、それが自慢の種にならぬ筈がない。しかしその誇らしさもせいぜい小学生のうちだけ、本むらの中学校通いに電車利用は難しかったようだ。
本むらへとなると、佐久間駅で電車を降りて、西渡回り(国道一五二)の水窪行きバスに乗り換えるコースで約三時間半、金も時間もかかる上に、うっかりバスに乗り遅れたらどうにもならない。
米や塩など日用雑貨のあらかたは小和田で間に合うようになったが、衣類など金目のものとなると、本むらへの用足しだけは相変らず峠越えの足に頼るしかなかった。
とは言え、いち早く開けた飯田・豊橋への便が、何がなし門谷の空気を変えたことだけは確か。娘たちでさえ遊びに行くには飯田、パーマ掛けや買い物などおしゃれなら豊橋と、そんなことでも、本むらより一歩先を行く実感に、つくづく溜飲を下げる思いがしたものだという。

資料
▲廃屋むら門谷に残る文教場を訪れた熊谷夫妻。

~駅が取り持つ界を越えた青春劇場~
この近代交通の便を三県が共有する位置にあった小和田には、ごく自然に県境を取っ払った隣人付き合いの輪が広がっていった。何よりも小和田に商店が出来て、日用品のあらましが間に合うようになってからというもの、朝っぱらから三県が寄り集まってわいわいがやがやと、そこには県の違いを気にするものは何もなかった。
そんな国境の駅小和田を懐かしむ人々にとって、忘れられない思い出の一つに、僻地の山里の駅小和田に、三県の若者が寄り集まって催した演芸会があった。毎年一・二回ぐらい、長野県平岡・愛知県富山・静岡県は門谷の青年団が中心になって、夫々に何組もの演芸を仕立てて、たっぷり一日かけて競演を楽しんだというのだ。
県が違うと言っても、常日頃小和田駅を使う顔見知り同士のこと、何せ遊び場のない谷間にあって、最初は一寸した鬱憤晴らしの溜まり場作りのつもりが、たちまち若者の間に話が広がり、何となく誘い合っていつの間にか交流の輪が膨らんでいったのだという。それが、組織だってとうとう一日がかりの娯楽日に発展すると、今度は何時、この次は映画会にしようかという風に、ごく自然に駅前劇場公演は調子よく転がり始めた。
電車で容易に集まりやすく、店もあり、買い物を兼ねた近郷の人々が朝早くから川を渡り峠を越えて集まり、広場に桟敷を取り合って、時ならぬ黒山の人だかりが小和田駅を包み込んだ。
何時しか駅の官舎に常駐していた保線区の職員までも飛び入りで参加するなど、和気藹々のムードに包まれ、その情景はまるで一つのむらの固まりを思わせる和やかさに満ち溢れていたと懐かしがる。
その日が来ると、最寄りの門谷の青年達が前の日から、小和田につめて準備にかかった。応援に駆けつけた佐太の仲間は川を渡って、平岡の衆は終われば電車で引き上げて行った。準備段階から小和田に集まる青年たちは男女入り混じって、年に一度のこの時を、公然の交際の場として心待ちにしていた。そして終わった後、必ず幾つか甘い話を残しては幕が閉じられた。
青年たちは一年に一回のこのチャンスを大事にしようと心ひとつに、いつもグループで行動していたから、衆にことよせて意外とはっきりものが言えたり、ウジウジしたところがなくいつも溌剌とした雰囲気に満ち溢れていたという。

「どうだ、おらぁのとこ(信州)へ嫁に来んかや」
「やだやだ、あんな寒いとこはいやなこっちゃ」

と罪のないやりとりにはしゃぎながら、終わってみれば誰それが平岡に嫁ぐらしいと噂に上る者が何人か。
しかし、中には切ない恋もあったらしく、今は県外に住む森下みとえさん(仮名)の初恋の人もその群れの中にいた。
養子とりでもあり、家の事情を頭に恋愛などできない身の上を、その時ほどはかなんだことはなかった。それとなく賑やかな群れから一歩退いて、羨ましく見守るばかりだった彼女にも、ひそかに慕わしく思う人が出来てしまった。たった一度だけ、思いもよらずその相手から声をかけられ、息がつまる思いがしたことがあった。
まるで夢見ごこちのひと時を、彼とどんな話を交わしたのか全く覚えていないが、その時限りでみとえさんの淡い小和田ロマンは終わってしまった。

ところが、十数年も経った昭和五十年頃に、その人と飯田でばったり出会ったことがある。
彼は今だからこんな話もできるがと、

「貴女から、門谷の山で暮らす気持ちなんてないでしょうねと、いきなり切り出されてショックだったよ」
「ウソー、そんなこと言ったの」
「言ったよ。あんたが好きだったから、思い直してあってみたいと思ったんだが、どうにも言いだせなんだ」

と、とたんに年甲斐もなく胸が熱くなって、もう少しで焼けぼっくりに火がつきそうになったと笑いながら、今小和田のホームに立っている「恋成就駅」の標柱は、皇太子と雅子様ににあやかってのことだろうが、とんでもない、小和田で結ばれたカップルは数え切れないほど、私たちにとって、小和田は青春の思い出が詰まった、れっきとした恋成就駅そのものなのだと誇らしげに言い切った。

~流域の崩壊、全ては佐久間ダムが出来てから~
対岸の佐太が、ここら辺の筏の中継点では最も賑わったところ。天竜川きっての渦巻く難所があって、筏師達はそこを抜けるとやれやれと、佐太で一泊して戻って行った。
そして川を挟んだやや上流の高瀬にも筏の中継場があって、飯田線が開通してからというもの、筏師たちの帰りを専ら電車に頼るようになって、小和田に地続きの高瀬もまた一段と賑わった。
天竜川の小さな支流高瀬川こそが遠州と信州の県境で、その合流点に渡場があり、川を挟んだ両岸に信州高瀬遠州高瀬と呼ぶ集落を吊り橋が結んでいた。

資料
▲図にするとこのような感じだろうか。佐太の「筏場」「上手」「下手」は如何にもな地名である。

今は小和田に住む宮下茂正さん一家は、元はと言えば、信州高瀬で筏師や船頭相手の宿を営む一軒であった。

資料
▲宮下茂正氏。

母が経営する宿吉本屋を助けながら、筏師仕事が今まで以上に忙しくなった宮下さんは、飯田線の開通は、街道依存に終止符をもたらす変化を及ぼした反面、同じ村内で電車利用による便益をもろに享受する駅むらが発展をみるなど、損するところもあれば得するところもあって、むしろ新しい風にたちまち馴染んで、むら全体が上向きに、弾んだ空気を滾らせていたような気がすると振り返る。

こんな山の中ではろくな物は出来なかったが、お茶だけは良いものが出来た。小和田扱いの貨物といえば大半が炭で、それも並みな量ではなかったが、山仕事が低迷期を迎えて、それに代わる程の量産が望めなかったのが、谷間のむらの運命を決めたのではないか。しかし、駅前に店を出した小沢磯八さん(水窪住)が製茶工場を開いてからというもの、小さいながらも小和田に生産活動が蘇った。
その時期が来ると、車が寄り付けない小和田に、背負われた生茶の多くは電車を使って運び込まれた。大半が自家消費用の手揉み茶を請けて揉んでいたが、県境を越えて集まる近在の人々で活気だった、小和田を代表する顔の一つでもあった。
人口も一気に三百人を越えたその頃の門谷が、最高の時代ではなかったか。しかしそれも長続きはせず、やがて佐久間ダムができるまでの束の間の夢だったようなきがしないでもない。

あれ程盛んだった佐太が、むらぐるみすっぽりとダムに飲み込まれ、その類が高瀬にも及んで、宮下さん夫妻が母を連れて小和田駅近くに住居を移したのは昭和三十年のことだった。

全てはそれを境に、三十五年に六十三世帯で三百十二人を保っていた門谷区が、四十五年には二十二世帯で八十六人と、崖を下る勢いで崩れを早めて行った。そして更に十年後には本むらが先んじて崩壊し、無人の廃屋むらに成り果てると同時に、小和田の駅むらからもまるで潮が引くように、いつの間にか人影が消え去って行った。
そしてJR飯田線の全線九十四の駅の中で唯一つ、車で乗りつけ不可能な僻地の駅小和田が、ひっそりととり残されてしまった。

高瀬橋
▲崩壊した高瀬橋。こちら側が遠州高瀬、向こう側が信州高瀬となる。(【第77話】秘境のメリークリスマス・中編 参照)

~平成のプリンセス「小和田雅子様」ブームに乗って~
平成四年二月、JR飯田線水窪駅の出札口に一寸した異変が起きた。時たま音連れる鉄道マニヤの求めに、田舎駅にない入場券の代わりに、上り三駅目の「相月」行き百八十円の切符で応えてきたのだが、これまで大凡売れたことのない下り二つ目の駅「小和田」行き二百円の乗車券に傾いてきた。

「ことによると、これはどえらいことになるぞ」

と伊藤収二駅長がひそかに予感を働かせていたものが、それが的中どころかまさかの喧騒に捲き込まれたのはそれから間もなくのことだった。

皇太子妃に小和田雅子さま内定の報道が、全国にお目出度ムードを煽り始めた最中のこと、その一しぶきが遠・信県境にある谷間の無人駅「小和田」に飛び付いた。
「おわだ」と「こわだ」、読みは違っても文字は同じ。

「雅子様の苗字と同じ小和田という駅がありますよ」
「アラッ、シアワセー、ナンナラ五枚チョウダイ」

とばかりに、この慶事にあやかろうと、またたく間に記念切符奪い合いの大騒ぎにエスカレートしようとは。まるで降って湧いたような小和田ブームの到来を、水窪町は歓迎ムード一色で受け入れた。
しかし、駅の窓口はそれどころか、電話や郵便攻めに連日翻弄されづめの有り様。そもそもの始まりは、町が発行した無形文化財「西浦の田楽」祭り(この年は二月九日)の宣伝パンフに、書き添えられた小和田駅の紹介がマスコミに嗅ぎ付けられてから、遠信県境の無人駅小和田にどっと人気が集まった。
この騒ぎに、町が膝を乗り出すのは当然のこと、切符が売れるか売れないかは駅の存続にかかっている。しかも、地元の熱心さがとかく問題にされがちとなると、このチャンス逃してなるものかと町を上げて立ち上がった。
この騒ぎが宮内庁の耳に届くのも早かったとみえ、即刻新聞種になったり、商売に逆用されたりすることのないようにと、きついクレームが寄せられた。

資料
▲当時の水窪駅の駅長、伊藤収二駅長。しかしその後水窪駅は無人駅となってしまった。

幸いしたのは、昔ながらの古い型の切符を使っていたこと。最初の新聞報道があったのが二月十六日で、それから四ヶ月後の六月九日には既に十二万枚が売りさばかれた。無我夢中とはいえ、よくもこれまでと内心ほくそ笑んだのはまだ序の口、切符注文の現金書留はダンボール箱二個に一杯、更に一ヶ月後の七月十日現在でなんと十四万二千六百九枚に達した。
議論に上ったのは切符に印字する日付を何時にするかで、最初から6の数字にこだわり、六月六日友引の日の六時六分が最初の案だったが、十二単にちなんで十二時に落ち着いた。
駅窓口で一番売れたのは六月九日の五千七百二十一枚。大量申し込みでは五月二日の七千五百八十二枚だったが、一人(豊橋の人)で五千二百枚の注文には驚いた。
中でも、当日窓口に現金百四万円を差し出しての注文にもいささか面食らって、日付印字に時間がかかることでもあり、二・三日の猶予をとお断りした。
大手の印刷会社から十万枚を三万ずつ三回に分けて注文するので、少し負けてくれというのには、伊藤駅長もさすがに困った。まぁ会社同士で話し合ってくれとその場を交わしたが、予想外の注文殺到に肝心要の切符がたちまち底をついて、端から切符の手配にきりきり舞の滑り出しとなった。
切符の手配は名古屋で、一回の印刷枚数は三ヶ月分が原則だが、そんなことは言っておられず、もしかしたら売れるのではと見当をつけた四百枚が三日ともたず、倍に変更して送ってくれと催促したところで、配達は一週間に一度、待ち切れず持ちに行くとしても、職員二人しかいない駅ではそれさえままならず、役場に助けを求めたり、てんやわんやの大騒ぎが連続した。
水窪駅に赴任四年目にして、誰にも経験出来ないことに巡り合わせて、私は本当に運が良かったと振り返る伊藤収二駅長は、どっと押し寄せた注文騒ぎで、きりきり舞いする毎日を溌剌と、私ほど小和田雅子様を身近に感じる日々を過ごさせて貰った者はないだろうと、感慨深げにそう結んだ。

資料
▲小和田駅にて見送りをする老夫婦。宮下さん夫妻であろうか。

資料
▲平成8年に撮影された小和田駅の駅ノート。私にとっては大先輩であり、昔を知るための古文書となる。素晴らしい管理体制のもと、今も尚一部ノートは保存されている。今も昔もCampusノート。

資料
▲水窪郵便局員、高木千津子さん。塩沢集落に郵便配達をするため片道一時間の山道を往復するのが日課である。
恐ろしい体力だ。

日頃人気のない小和田駅に、乗降客といえば水窪から通う郵便やさんが一人。それはもう、降って沸いた大変事としか言いようがない。新世紀のプリンス「小和田雅子様」の慶事にあかやろうと、小和田駅に全国からの訪問客でわんさの人だかりを呼び込んだ。ホームに降りても、別段見るところも行くところもない。せめて小和田の地を一目と、連日押しかける客を臨時駅長を請けた小和田の住人宮下繁江さんが笑顔で出迎えた。


資料
小和田駅で挙式後、記者会見に応じる蜂谷夫妻。今回の調査でこの駅で挙式した夫妻の名字を漸く知ることができた。

資料
▲テレビカメラ12台、報道陣50人、総勢800人が小和田駅に押し寄せた。現在ではあり得ない光景であり、秘境号でもこんなに人が集まることはない。

資料
▲小和田駅臨時駅長、宮下繁江さん。我々にとっても有名人であるが、現在は病気により小和田を離れてしまった。

人並みに揉まれているだけで、妙に幸せ気分に浸れるなんて、あんな嘘のような毎日を送れた私はそれこそシアワセだった。それもこれもまるで夢のようだったと振り返りながら、元の静けさに戻った今も尚、相変わらず訪れる人々が後を絶たず、若いカップルが恋成就駅の柱の前で写真を撮る微笑ましい姿が、なぜか懐かしく目に映るのだという。
それもその筈、夫茂正さんとは平岡の上平分教場の学び舎を一つに、好き合って結ばれた宮下夫妻もまた、三県交流全盛期時代の小和田に、青春をぶっつけ合ったあの頃を懐かしむ当の本人たち。繁江さんが恋成就の柱に寄り添う二人連れに重ね見たものは、若かりしあの頃の自分たちであったのかもしれない。


一通り調べ終わって多少の満足感に浸りつつふと時計を見るとなんと電車到着5分前であった。慌てて広げていた本をすべて片付け、職員の方にお礼を言って退館した。1時間では十分でなかったように思う。

佐久間駅

旅行者というのは大半がネットで得たような半端な知識で旅をし「本当に何もない」だの「田舎」だの「大したことない」だの好き勝手なことを言って自己満足して帰っていく者ばかりだが、土地が存在する限り何もないことなどありえない。現にこの小和田周辺でも波乱万丈の歴史があったのだ。
一旦足を止め、その土地について歴史を少しでも知ることで、もっと楽しく、より良い旅ができるのではないかと心から思う。
身につけた知識が重荷になることは絶対にないし、その土地に対して敬意を表す意もある。

私も次回小和田駅を訪れる時は今までとは違った気持ちで訪れることになるだろう。
亦、この佐久間駅もとてもいい駅だったのでまた訪れて三信地域の歴史を調べたい。

佐久間駅

斯くて定刻通り上り電車が入線。
カッコよく締めたかったがまさか3両で来るとは思わず、置きピン位置を間違え盛大に失敗した(爆)。


次回に続く!

No.241駅図書館の歴史目録
場 所静岡県浜松市天竜区 佐久間
日 時2016/07/12
備 考佐久間町史 下巻
保存版 飯田線の60年
飯田線200キロ
引 用TVアニメーション『大図書館の羊飼い』第1巻(初回限定盤) [Blu-ray]
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2 Comments

S.nagata  

勉強になりました!

凄い情報量でじっくり読ませてもらいとても勉強になりました。
飯田線を乗りに行きたくなったと同時に佐久間図書館に行きたくなりました。

『土地が存在する限り何もないことなどありえない。』
正しくそう思います。目の前にある情報だけでは知りえない事が世の中には沢山あります。旅は単なる「移動」ではなく目的地や立ち止まった場所で「考える」「感じる」ことが重要ではないかと改めて思いました。
おいらも旅先では何気に図書館や資料館に気軽に入ってしまう方なので、この様な「知識のごちそう」が揃った図書館などは本来の目的を忘れて寄り道しても後悔はしないと思います。
元々細かい計画が苦手な上に「旅行なんて目的やプランを完璧にクリアしても面白くない」逆に予想外のサプライズがあればそんなコトどうでもいいや!って感じで旅をしているので、こういう場所はおいら的に絶対楽しめるんじゃないかと感じます。
もし行くとしたら来月かなぁ…?
(今度は絶対電車でね(笑))

2016/07/19 (Tue) 20:32 | EDIT | REPLY |   

しらたき  

To S.nagataさん

飯田線お待ちしておりますよ~(笑)
8月は18きっぱーの目があるので集中するならシーズンオフをオススメしますが……
行くのならばゲリラ豪雨だけはご注意ください!

2016/07/20 (Wed) 23:10 | EDIT | REPLY |   

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